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六郷田無道 道中記

①六郷から池上本門寺  ②池上本門寺から大岡山  ③大岡山から千歳船橋  ④千歳船橋から三鷹  ⑤三鷹から田無

③大岡山から千歳船橋まで 街道地図


雪谷台地の尾根道を進んできた六郷田無道はこの先で大型トラックが行き交う環七通りに合流。
交差する目黒通りを過ぎると今は消滅した鎌倉街道中道が斜めに横切っていた。その先30分ほど
歩くと大山街道(現国道246号)と交わるのだがこの区間は見所が無いのでちょっと裏道を。
大山街道の上馬交差点を越えたら旧道の静かな道に入り弦巻、桜丘を経て小田急線千歳船橋駅前。
今回の街道歩きはここで終了。

令和元年6月11日

雪谷台地の尾根を通ってきた道は大岡山駅前から2本に分かれるが左側が六郷田無道の旧道。この道は大田区と目黒区の境界線。

7~8分歩いたら十字路を右へ曲がり寄り道を。坂道を下って行くと林に囲まれた窪地があるが、ここは清水窪と呼ばれ「東京の名湧水57選」に選ばれた湧水地。ここに湧き出た水が洗足池に流れ込んでいる。
湧水池の奥に鎮座しているのは「清水窪弁財天」(左)。江戸時代初期、この地にこもる霊気を感じた岸田家の先祖が弁財天を祀られたのだとか。かつてはうっ蒼とした杉の森で昼でも天日を見ることができなかったという。

尾根道に戻り数分先の十字路を左に曲がると その先に「帝釈堂」(右)。  堂内に祀られているのは延宝8年(1680)、貞享2年(1685)、明治14年(1881)帝釈天庚申塔と南無妙法蓮華経と刻まれた天保13年(1842)の題目塔。

堂外に2基の庚申塔があるが、奥にある文化7年(1810)「文字庚申塔」(左)は道標を兼ねている。庚申供養塔と刻まれた両側の文字は「右ハ目くろミち 左ハ二子の渡し」、側面には「右ハほりの内 左ハ池上」 。

帝釈堂の先から下り坂となるがこの坂を地元の人は「鉄飛坂」(右)と呼んでいる。なんとも奇妙な坂名だが標柱の説明書きによると「てっぴ」とは山頂、てっぺんを意味し、それが坂名になったと云われるが、その他にもポルトガル人のテッピョウスという人物が住んでいたから とか、鉄砲鍛冶がいたからなど諸説がある。

尾根道に戻り5分ほど歩くと大岡山小学校の前から環七通り(都道318号)に合流。10分ほど歩いた先の目黒通りを越えると かつては鎌倉街道中道が横切っていた。
さらに30分ほど環七通りを歩き大山街道(現・国道246号)を横断して旧道に入るのだが途中の見どころが無いので駒沢陸橋下まで来たらちょっと裏道へ。

東急ストアの横を入り数分歩くと水車橋というバス停があるが ここは明治16年(1883)に品川用水を利用した野沢水車が設置された場所。手書きの説明板に描かれているのは当時の様子と「水車小屋のイラスト」(左)。

その説明板に、用水に係わる馬引沢水神が正徳寺に祭祀されている、と記されているので正徳寺を探したが見つからんのです。地元の人に聞いても寺など無い、という。ところが説明板の脇を入った階段上の小さな御堂が「正徳寺」(右)。中には仏具があり花が手向けられている。お堂の前には馬引沢水神が祀られ前庭には馬頭観音や二十三夜塔、庚申塔なども。

水車説明板前の道を西へ進むと野澤交差点で環七通りにぶつかるが、ここにはかつて二本の松があり「二本松地蔵」(左)が鎮座していた場所。台座が道標になっており刻まれている道筋は正面に 「世田谷道 堀之内道」、側面に「東目黒道」、背面に「西大山道」。 現在は少し先の龍雲寺の境内に移設されている。

この先も環七通りに戻らず一本内側の旧村道を歩く事に。
数分歩いた先の野沢稲荷神社境内北角の「庚申堂」(右)に祀られているのは元禄8年(1695)造立の庚申塔。この庚申塔はちょっと珍しく左手にぶら下げているのはショケラ

旧村道をそのまま進むと大山街道(国道246号)にぶつかるので上馬交差点まで南下し交差点を渡ると旧道に復帰できる。交差点を渡る前にちょっと寄り道を。

 向かった先は「宗円寺」(左)。北条左近太郎入道成願(文保元年 1317没)が小さな草庵を建てたのが起源で江戸次代初期の寛永10年(1633)に喜山正存和尚が中興したという古刹。説明板によると、山門を入った左手の堂内に江戸初期からのしょうづかの婆様(奪衣婆)が祀られているということだが扉が固く閉ざされ見ることはできなかった。

上馬交差点を渡って静かな旧道に入り7~8分、五差路向う側の祠の中に三面六臂の「馬頭観音」(右)が祀られている。 文化13年(1816)の造立ということだが つい最近造られたのではないかと思えるほど保存状態が良い。
 

五差路を右へ入り住宅地の中を7~8分、駒沢公園通りに入り弦巻まで来たらちょっと寄り道を。
常在寺の前に鎮座する「いぼとり地蔵」(左)は三百年前の寛延4年(1751)に弦巻村の女性21人が浄財を出し合って作ったもので いぼとり地蔵さんとして親しまれてきた。

さらに北進して世田谷中央病院交差点まで来たら左に曲がると、そこは「ボロ市通り」(右)(矢倉沢往還)。天正6年(1578)に小田原城主の北条氏政が発した【楽市掟書】が起源とされる六斎市が代官屋敷前の通りで開かれていた。明治中頃から古着が多くなりボロ市と呼ばれるように。今も年末年始に開かれているぼろ市は東京都指定無形民族文化財。


ボロ市通りに入って数分、左手に「世田谷代官屋敷」(左)があるが訪問した日は修復工事中。左写真は以前撮影したものだが大場家七代六兵衛盛政が元文2年(1737)と宝暦3年(1753)の2度にわたる工事で完成させたもの。 表門と主屋は国指定の重要文化財。
大場家は元文4年(1739)から幕末まで彦根藩世田谷領の代官を世襲で務めており、その役宅として使われていた。

世田谷郷土資料館が併設されているがその前庭に庚申塔や地蔵尊、萬霊塔、狐の石像など寄贈された「石塔」(右)が説明付きで並べられている。

郷土資料館を出たら世田谷通りを越え住宅街の中の狭い道に入っていくのだが、ここでもちょっと寄り道を。

向った先は世田谷吉良家の菩提寺「勝光院」(左)。世田谷城主吉良治家が建武2年(1335)に創建したと伝えられ当初は龍鳳寺と称していたが戦国時代に勝光院と改めている。山門の右手は世田谷百景に選ばれた『勝光院の竹林(冒頭の写真)』。竹林の前に真っ赤な涎かけの地蔵とは憎い演出だね~。

参道途中の墓地内に「吉良家墓所」(右)がある。 世田谷吉良家は清和源氏・足利氏の支族で14世紀後半、治家の代に居館を構えこの地域を支配していた。だが関東が徳川氏の支配下に入ると吉良家は上総国に移封。しかし勝光院はその後も吉良家の菩提寺であった。

街道に戻り住宅地の中の狭い道をかれこれ30分、小田急線千歳船橋駅の少し手前に鎮座するのは「稲荷森(とうかもり)稲荷神社」(左)。創建年代は不詳だが土地の古老たちは 「奥州へ落ち延びた源義経を追っていた静御前がやってきて当神社で一夜を明かした」 と言い伝えている。

境内の南東角にある「地蔵堂」(左)の地蔵は延宝4年(1676)の建立。地蔵堂の前には延宝7年(1679)、正徳3年(1713)などの庚申塔が4基。

小田急線の千歳船橋駅がすぐそばなので今回の街道歩きはここまで。

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