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六郷田無道 道中記

①六郷から池上本門寺  ②池上本門寺から大岡山  ③大岡山から千歳船橋  ④千歳船橋から三鷹  ⑤三鷹から田無

④千歳船橋から三鷹まで 街道地図


千歳船橋からは千歳通り、吉祥寺通り、島屋敷通り、下本宿通り、連雀通り、と名だたる街道を渡り歩いて
三鷹に至る。その間に横切る古道は滝坂道、旧甲州街道、人見街道。 途中には古道の証である庚申塔が
数多く残されている。また森鴎外と太宰治の墓所という思わぬ見所も。

令和元年7月8日

稲荷森稲荷神社を出て商店街の中を進んだ六郷田無道は小田急線の高架で分断。ここは高架に沿って左に曲がり千歳通りに入って高架下を通ると六郷田無道に復帰できる。

千歳通りに入って20数分、塚戸十字路際の「庚申堂」(左)に享和2年(1802)の文字庚申塔が祀られているが、これは道標になっており次のように刻まれている。正面に「東 世田ケ谷 道」、側面に「南 二子道」 「北 高井土道」、背面の西方面は読み取れない。四方向が示されているということは十字路の真ん中にあったのだろう。

数分歩いた先の塚戸公園前の道路際に「六郷田無道説明碑」(右)があり次のように記されている。
この道は、かつて「府道六郷田無線」といって、今の中央線である甲武鉄道が明治22年に新宿~八王子間に開通するまでは、六郷・蒲田方面から大岡山・上馬を経て給田の北縁を通り三鷹を経由して田無方面に通じる昔の往還でした。今では狭いうえに交通量も多く、古い道とは想像もできませんが地形に素直に合っている道筋は、なぜか人の匂いがあります。

ほどなく榎交差点で古道滝坂道と交差、六郷田無道は交差点を横断して住宅街の中の狭い道を進むのだが世田谷百景に選ばれた「上祖師谷の六郷田無道」は榎交差点の先から。

交差点を越えて数分歩くと文化9年(1812)建立の「庚申塔道標」(左)がある。右側面に刻まれた行き先は「東たかいどミち」、左側には「南せたがや めぐろみち 北ところざハミち」と。基部には寄進者の名前が刻まれているが、この台座は最近再建されたようだ。

やがて吉実園前の味わいある小径となるが その右側に「長太稲荷」(右)が。由緒などは分からないが真っ赤な鳥居が印象的。この境内から下を覗くと鶏が放し飼い。草を抜いて放り込むと駆け足で寄ってくるではないか、可愛いね~。

この先しばらくは住宅街の中の狭い道を歩き、京王線の踏切りを渡り、旧甲州街道を横切り、現甲州街道(国道20号)を横断するとその先は吉祥寺通り。

吉祥寺通りに入って30分、新川二丁目交差点まで来たらちょっと寄り道を。右に曲がったY字路際に「庚申塔道標」(左)が1基。延暦7年(1757)の建立で道標を兼ねており、刻まれている道筋は「左 神代寺みち」「右 天神みち」。

その天神道を7~8分歩いた先が新川天神社。参道入り口の庚申供養塔」(右)は延宝8年(1680)の建立。塔の上部に日月、下部に三猿が彫られた簡素なもで、庚申塔としては比較的珍しい初期型のもの。
コメント:途中の中央高速道路高架手前に八幡神社、向う側に庚申堂があったようだが、東京外郭環状道路の工事の影響で撤去されてしまった。仮設でもよいから残してくれればなー

新川二丁目交差点まで戻り5~6分歩くと新川三丁目交差点。ここは五差路となっているが六郷田無道はここを右に曲がり島屋敷通りに入って行く。

右へ曲がる前に交差点を渡って20mほど歩くとブロックに囲まれた中にかなり風化が進んだ「石仏」(左)があるが、この石仏は側面が道標となっている。左側面を見ると「西 志ん大寺ミち」と刻まれているようだ。右側面はかろうじて「東 *ごうミち」と読める。もしかしたら「六ごうミち」。

このままもう少し歩いて「勝淵神社」(右)に寄り道を。この神社は賤ケ岳の戦いで敗れ北ノ庄城で自刃した柴田勝家の孫・勝重が仙川村(現新川)を支配地として受領し島屋敷に居住した際、祖父勝家から授かった兜を水神の森に鎮めて創建したと伝わっている。

三丁目交差点まで戻り島屋敷通りを北進。東八道路を横断し突き当たったら左へ曲がると下本宿通りに入る。

7~8分ほど歩くと三鷹一小前交差点で右からくる「人見街道に合流」(左)。写真では向うからくる道。人見街道は東京都杉並区の大宮八幡宮と府中市八幡町を結ぶ古街道で古代の武蔵国府に通じていた。

その先数分、公会堂前の祠の中に祀られているのは享保4年(1719)造立の「地蔵尊」(右)。すぐ先の祠には三百年以上前の元禄5年(1692)に造られた「庚申塔」右)が。公会堂の裏には新川八幡神社と祖師堂が並んでいる。

人見街道はまっすぐ西へ進むが六郷田無道は新川交差点で右へ曲がり、吉祥寺通りを15分ほど歩いたら狐久保交差点で左に曲がって連雀通りへ入って行く。

連雀通りは三鷹市下連雀と上連雀を貫く道だが「連雀」という地名は神田連雀町に由来する。
明暦の大火(明暦3年・1657)で被災した神田連雀町の住人が移住した地を神田連雀新田として開墾が行われた。その後開墾が進み連雀村となったが、その際、京都に近い方を上連雀村と称し江戸に近い方が下連雀村となった。

連雀通りに入って10分ほど歩くとビルに隠れるように2体の地蔵尊が祀られた「地蔵堂」(左)がある。左側の地蔵尊は享保15年(1730)造立だという。右側の地蔵尊は比較的新しそう。
その先数分、丁字路際にコンクリート造りの祠に納められた「庚申塔」(右)が。この祠、頑丈すぎる。

庚申塔祠の対面は明暦の大火(明暦3年・1657)で移住してきた神田連雀町の住人が創建したという禅林寺。
その禅林寺墓地の中ほどに「森鴎外の墓」(左)と「太宰治の墓」(右)が向き合っている。

60歳で亡くなった鴎外の遺骨は墨田区の広福寺に置かれていたが関東大震災で被災したため遺族により禅林寺に改葬。 墓石に刻まれた文字は本名の森林太郎墓。斜め前は太宰治の墓だが太宰が森鴎外を大変尊敬していたことから、死後、美知子夫人が夫の気持ちを酌んでここに墓所を設けたという。
墓地の奥に国鉄三大ミステリー事件の一つであった三鷹事件の遭難者慰霊塔がある。

禅林寺の隣は明暦の大火で移住した人達の心の拠り所として寛文4年(1664)に創建された「八幡大神社」(左)。連雀村の名主 松井治兵衛らが幕府に請願、老中松平伊豆守が検地を命じて八幡大神社の創建を許可したという。
八幡大神社の脇を通っている三鷹通りから向うは上連雀となる。

上連雀に入って10分ほど歩いた左手奥は関東八十八ヵ所霊場第七十番の井口院。見所の多い寺院だが、山門を入った目の前の「雨乞弥勒」(右)は文政11年(1829)に建立されたもの。その霊験は大変にあらたかで、遠く川越、秩父方面からも雨乞祈願に訪れる人達が絶えなかったそうだ。

井口院の隣は「上連雀神明神社」(左)。 由緒によると井口家五代井口八郎右衛門の三男権三郎によって寛文12年(1672)に村社として建立。隣の井口院が別当寺であった。神社入口の道路際に享保13年(1728)の庚申塔と宝永3年(1706)の小さな庚申塔が立つ。

その先の塚交差点を渡った先に見える鳥居は「大鷲神社」(右)。神社碑の裏に刻まれた由緒によると創建は江戸時代中期、当初は二ツ塚跡(現塚交差点付近)にあったが道路改修工事のため明治初年(1868)に現在地へ遷座。「神社碑」(右)の文字は武者小路実篤の揮毫によるもの。

塚交差点まで戻ったら武蔵境通りを北進するのだが各幅工事が行われ道路名も新武蔵境通りに改称。全く味気ない道路になってしまった。
六郷田無通りはこの先でJR中央線の高架下を通り玉川上水を渡って田無に向かうのだが、文章が長くなるのでページを改める。

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