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姫街道 道中記

①見付宿から小豆餅  ②小豆餅から落合橋  ②落合橋から西気賀   ③西気賀から三ヶ日  ④三ヶ日から和田辻  ⑤和田辻から御油追分

前半小豆餅から落合橋まで 街道地図

姫街道の旅 2回目は三方原の小豆餅から天竜浜名湖鉄道の西気賀駅まで歩いたが文章が長くなるので
落合橋までの前半と落合橋から西気賀までの後半に分けて記述した。
小豆餅から三方原台地を北西方向に向かう姫街道には所々だが数キロに渡って松並木が残っている。 
しばらくは県道261号をトラックに付き合いながら歩く。三方原台地北西端まで来ると長坂と呼ばれる旧道の
下り坂が残っており往時の草道を味わうことができる。長坂を下り落合橋を渡ると気賀関所があった気賀宿だ。

 平成30年5月16日
浜松駅からバスで30分、小豆餅北バス停で下車し一里塚橋交差点を左折して姫街道の旅、再開。

交差点を左折して数分、形はだいぶ崩れてしまったが 「追分一里塚」(左)の左側が現存。追分 となっているが実際の追分はこの先10分ほどの元追分交差点。この交差点は浜松宿から出発した姫街道と市野宿を通ってきた姫街道との合流点。 御油から来た場合は浜松宿への道と市野宿への道の追分となる。

元追分交差点の向う側に「道標が2本」(右)。背の高い道標は明治37年(1904)に建立されたもので「奥山半僧坊大権現三里」と刻まれている。小さい道標は慶応4年(1858)の建立で地蔵が刻まれた下に縦3行に「右みやこだ 中かなさし 左きが 道」と。

交差点を越えるとさっそく「姫街道松並木」(左)が。左側の建物には姫様行列の図が描かれ、松の根本には「姫街道の松並木」と記された宿場行灯も。なかなかの演出だね~  説明板によるとこの松並木は3.8kmに及ぶという。

見渡す限りの直線道路を約30分、到着した場所は「三方原神社」(右)。元々は浜松城二の丸内に祀られていた東照宮を大正12年(1923)に当地へ遷座。昭和31年(1956)に三方原神社と改称。境内は明治初期の三方原開拓の中心地で、戸長役場、扶持米倉庫、小学校などが置かれた場所。これらの記念碑が設置されているが、近くには士族屋敷跡の石碑なども。

県道65号葵町交差点を渡ると道路際に「三方原救貧院跡」(左)と刻まれた石碑がある。説明板によると 三方原開拓民の困窮を見かねた気賀の林氏が生活困窮者のための福祉施設を設けた場所。

その先数分のところに「ごんひち」(右)と記された看板の商店が。江戸時代、三方原追分から先の松並木は家がほとんど無く寂しい所。やっと現れた権七(ごんひち)店は旅人や馬方の、そして近隣の人々の憩いの場所であった。
ところで、ごんひち前のバス停名が「権七」、その先の交差点信号も「権七」。その ごんひち は今も雑貨を商っている。

ごんひちから十数分、バス停一里塚の両側に日本橋より67里「東大山一里塚」(左)が左右とも現存。南側の一里塚(左写真)前の祠に祀られているのは馬頭観音。

この先しばらくは歩道が無いので大型トラックが通るとちょっと怖い。

しばらく歩いて大谷坂を下り 大谷川を渡って再び右に曲がりながら上り始める左側に、ミラーの上で御姫様が笑っているというユニークな「カーブミラー」(右)が。

緩い坂道を上って10分、街道際の石碑は「曲がり松と松原十湖の句碑」(左)。この松は樹齢五百年を経て あたかも地中からはい出した龍のようだったという。現在の松は2代目。真ん中の石塔は松島十湖の句碑で十湖が明治19年(1886)に引佐郡長を辞した日に詠んだ句 別るるは また 逢うはしよ 月の友 が刻まれている。左の石柱は昭和天皇御巡幸の際この松をご覧になった事を記念して建立したもの。

さらに15分ほど歩くと県道は右へ曲がって行くが姫街道は真っ直ぐ。次の十字路向うに見えるのは「六地蔵」(右)。 うしろの竹藪はその昔 刑場があった場所。 その霊を慰めるためのもので正徳2年(1771)の建立。

ほどなく丁字路となるがここに文化8年(1811)建立の「老ケ谷の秋葉常夜灯」(左)がある。姫街道はこの丁字路を右へ曲がるのだが車も人も通らない静かな道がしばらく続く。

右へ曲がって5~6分、街道際の林の中の建物は「千日堂」(右)。傍らの説明板によると 「宝永年間(1704~10)に千日講本尊として阿弥陀如来を祀り千日念仏を行ったので千日堂と呼ばれるようになった」 とある。今も毎月九日に念仏講が続けられている。

さらに5~6分歩くと三叉路の真ん中に 「長坂改築記念」 と刻まれた小さな石碑が建てられているが姫街道の旧道はここを左へ。

左に入ってすぐの所は江戸から68里目の「老ケ谷一里塚跡」(左)。一里塚碑と説明板が建てられているが、それによると、道の両側に松の木を植えた築山があり近くには富士見茶屋があったそうだ。

旧道はその先の「姫が描かれた給水塔」(右)脇を通って旧道の長坂を下って行く。この道が江戸時代から変わらないのではないかと思えるような雑木林の中の道。ずっと残ってほしいね。

ちょっと下った所にあった石碑は「服部小平太最期の地碑」(左)。桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った功労者の服部小平太は勲功によりこの地を治めていたが天正15年(1587)にここで何者かに討たれ落命。

この先も林の中の薄暗い道を下りアスファルト舗装道を横断してさらに下ると小さな御堂があるが これは「秋葉常夜灯鞘堂」(右)。 旧道はここで車道に合流し左へ曲がって行く。

数分先に「新谷の宗安寺」と題した説明板に「服部小平太が祀られた寺があったが今は廃寺となり石段と石仏が残っているだけ」とある。石段を上り行ってみたが広場と廃屋だけで石仏は探せなかった。

県道261号を横断し数分、左手に小高い山が見えるがここは戦国時代の永禄11年(1568)に築かれた刑部城跡。徳川家康の遠江侵攻に備え築かれた城で、今でも犬走りや井戸が残っており二の丸跡には「金山神社」(左)が建立されている。

街道は刑部城跡のある山を回り込んで刑部川を渡り、左へ曲がって落合橋へ行くのだがうっかりと県道に戻ってしまったのが残念。だが、県道際に刑部城の説明板があったのでよしとするか。

その先は都田川と井伊谷川の合流点となる落合川。かつては渡し舟で対岸へ渡ったのだが今は「落合橋」(右)で気賀宿に入る。

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