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姫街道 道中記

①見付宿から小豆餅  ②小豆餅から落合橋  ②落合橋から西気賀   ③西気賀から三ヶ日  ④三ヶ日から和田辻  ⑤和田辻から御油追分

③西気賀から三ヶ日まで 街道地図

姫街道の旅、3回目は西気賀から引佐峠、大里(おおり)峠を越えて三ヶ日宿まで。
西気賀から山中に分け入る石畳の山道を登っていくと ほどなく引佐峠に到着。標高200mほどの峠だが
結構キツイ。 この先の下り坂も石畳道が続き、その先はミカン畑の間を通って行く。駒場の集落を過ぎ
大里峠まで上ったら東名高速を越えて坂道を下っていくと三ヶ日宿に入る。

平成30年6月25日

天竜浜名湖鉄道の「西気賀駅」(左)が今回の出発点。味わいある駅舎は昭和13年(1938)に建設されたもので国登録有形文化財。駅舎内の造り付け木製ベンチや木製の改札口は当時のまま。
駅舎の中を通って線路を渡り、前回終了した三叉路まで戻ったら姫街道の旅再開。

数分歩くと「薬師堂と秋葉常夜灯」(右)があるが、この御堂は天保6年(1835)の再建。説明板には「姫街道に建てられた辻堂」と記されていることから旅人達の休憩所でもあったようだ。隣の秋葉常夜灯は文化2年(1805)の建立。

薬師堂先の岩根川を渡り左へ曲がって道なりに進み丁字路に差し掛かったら右に曲がって行く。ちょっと複雑だが要所要所に「姫街道案内板」(左)が立てられているので迷うことは無い。

すぐ先から山へ分け入る石畳道があるが ここが「引佐峠への入口」(右)。 姫街道(本坂通)は道中奉行の管理下にあっただけによく整備された街道で引佐峠を越える道はしっかりと石畳。

石畳の山道を7~8分ほど上ると林の中に何やら真っ赤な物体が。近づくと赤い服を着せられた「地蔵」(左)であった。冬は寒かろうと地元の人が着せたのだろうが、ちょっとドキッとするな~。

そのすぐ先は「姫岩休憩所」(右)。その昔、お姫様一行もここで休憩され「まあ、よい景色」とつぶやいたとか。
今は樹木が繁り全く見通しが悪い。休憩所の右側に八畳ほどの平らな岩があるが お姫様の行列はこの上で休憩されたのだろう。元々は平岩と呼ばれてたが いつの頃からか姫岩に。

姫岩の先で一旦農道を歩き数分先の三叉路を右に入ると再び石畳道。この先何カ所か三叉路があるが全て右に入って行く。ほどなく石畳の階段がありここを上ると車道の向うに東屋の休憩所とトイレが見える。ここまで来れば峠が近い。

再び石畳道を上ると数分で「引佐峠」(左)に到着。左手に引佐峠の大きな標柱があり右手に姫街道、引佐峠などの説明板が設置されている。説明板に標高200mとあるが結構キツイ上り坂。峠といっても見晴らしは良くない。しかし冷たい風が吹き抜けるので火照った体になんと気持ちが良いことか。この先はジグザグに下って行く。

4~5分下ると「象鳴き坂」(右)に差し掛かる。享保14年(1729)、広南国より献上された象が将軍お目見えのため姫街道を通ったが この坂まで来るとあまりの急坂で象が悲鳴をあげたという。

さらに3~4分下ると街道際に「石投げ岩」(左)なる大きな岩がある。引佐峠を登り下りする旅人がこの岩に石を投げて旅の無事を占い祈ったのだとか。

杉林の中の緩い坂道を下りアスファルト道に入ると視界がパッと開け彼方まで広がるのはミカン畑。
ほどなく見えたのが江戸より70番目の「大谷一里塚跡」(右)。一里塚跡碑があるのだが木に隠れているため説明板が無ければうっかり通り過ぎてしまいそうだ。この先も緩い下り坂が続く。

長閑な田舎道を下って来ると和田牧場の表示があったのでちょっと寄り道を。牧舎に入ると「黒牛」(左)が一斉に集まって来るではないか。鼻先を撫でるとおとなしく撫でられている。可愛いね~

坂を下りきった所の左手、森の中に祀られているのは「六部様」(右)。 明和4年(1767)、大谷村と都筑村の村境で生き倒れになった巡礼の六部・僧円心の墓。

六部様を出て県道308号に入り大谷橋を渡ると「大谷代官屋敷跡」(左)。ここは江戸にいる領主旗本近藤家に代わって領内を支配していた大野家の屋敷で地元の人々は代官屋敷と呼んでいた。

代官屋敷の横を入ると「旗本近藤家陣屋跡」(右)。近藤家は寛永6年(1629)に気賀近藤家から分家し天保13年(1842)に内野に移るまでの200年間 この地方を支配。

コメント:冒頭の「姫街道案内図」が代官屋敷前に掲示されています。

代官屋敷から100mほど歩くと道路際の一段高いところにある説明版は「安形(あんがた)伊賀守館跡」(左)。説明板によると「戦国末に安形伊賀守が居住した地。永禄12年(1569)に家康に討たれ滅亡したが子孫は宇都宮戸田藩の家老として明治維新まで続いた」とある。

街道はその先の三叉路を右へ。
数分先の「慈眼寺庚申堂」(右)は明治初年の大火後に佐久米の阿弥陀堂を移築したもの。格天井には弘化4年(1847)に描かれた60枚の美しい花鳥画があるということだが、残念ながら見ることができない。

慈眼寺から数分歩くとその先の旧道は東名高速で消滅。脇道を通り東名高速の下をくぐって数分歩くと旧道に復帰。

旧道に復帰した所から南方向に伸びる直線道路は「御殿道」(左)。三代将軍家光がこの先の野地城に御茶屋御殿を建てたことから御殿道と呼ばれていた。寛永11年(1654)、家光は上洛の行き帰りに御茶屋御殿で昼休み。

旧道はこの先で東名高速のため再び消滅。迂回路を通って向う側に回り坂道を上ると「大里(おおり)峠」(右)。消滅した旧道は説明板の横を通り、その先でUターンしながら再び東名高速を横断して三ヶ日宿へ下って行く。

茶畑の間を下って宇志集落に入ると十字路の向うに説明板が建てられているが ここは「宇志の茶屋跡」(左)。人々が多く集まった場所であることから高札場も建てられていた。

十字路を右に曲がった奥の墓地内にある六角柱の墓石は文化10年(1819)に建立された「片山竹茂の墓」(右)。片山竹茂は宇志八幡宮六代目宮司を勤めるとともに俳諧の指導者でもあった。墓碑に竹茂をはじめ十二句が刻まれている。
正面の句は  迚もゆく こゝろせはしや 雪の山  梅芳江寒庵主 俗名片山傳平正房

片山竹茂が宮司を勤めたという「宇志八幡宮」(左)まで足をのばしてみることに。
八幡宮の摂社・赤鶴神社には鎌倉・室町期の能面師・赤鶴吉成作の能面「父尉と鉢巻悪尉」の2面が秘蔵されている。その昔、大洪水があり浜名湖岸の宇志部落に漂着したもので、以来、干ばつの際に漂着地で祈願すると必ず雨が降ったという。

街道に戻り10分ほど歩くと三ヶ日宿に入るがその入口の火の見櫓の下は江戸より71番目の「三ヶ日一里塚跡」(右)。ここには一里塚址碑もあるはずだが木が覆いかぶさって全く見えないのが残念。

その先、三ヶ日郵便局前にあったのは「三ヶ日宿碑」(左)。 その数分先、交差点手前右側は三ヶ日宿問屋跡。問屋を務めていた石川家は先ほど立寄った慈眼寺庚申堂の格天井花鳥画を描いた画家の一人、石川昌斎の実家でもある。

交差点を渡った先の左側、酒の日野屋脇の路地を入ると「杜香(とこう)の井戸」(右)がフェンス越しに見られる。日野屋は元々は造り酒屋で、江戸時代からこの井戸水を使って酒の仕込みが行われていたという。「杜香」は日野屋四代目当主の俳号であった。

次の交差点向うに存在感ある古民家が見えるが、ここはかつての「石川脇本陣」左)。ということだが説明板の類が無いため詳しいことは分からない。
その対面が「三ケ日宿本陣跡」(右)で小池家が務めていた。 説明板によると 江戸末期の測量家・伊能忠敬も泊っており日記には「家作よし酒造をなす」と記されているそうだ。

街道の行く先に本坂峠の山並みが見えるが公共交通機関に不安があるので今回の旅はここまで。天竜浜名湖鉄道の三ヶ日駅から帰路に。

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