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姫街道 道中記

①見付宿から小豆餅  ②小豆餅から落合橋  ②落合橋から西気賀   ③西気賀から三ヶ日  ④三ヶ日から和田辻  ⑤和田辻から御油追分

④三ケ日から和田辻まで 街道地図

姫街道の旅、4回目は三ヶ日から本坂峠を越えて愛知県に入り嵩山(すせ)宿を通って和田辻まで。
三ヶ日宿からかれこれ1時間ほど歩いて本坂峠越えの石畳道に入るのだが、途中には秋葉常夜灯や
左右現存の一里塚、橘逸勢神社や茶屋本陣の長屋門など飽きない程度に見所が続く。
国道脇から石畳の旧道に入り40~50分登ると標高328mの本坂峠頂上。峠を下り嵩山の集落を
通ると再び国道に合流。今回の旅はその先の県道31号と交差する和田辻まで。

平成30年7月10日

天竜浜名湖鉄道の三ヶ日駅から5~6分ほど歩くと前回の最後に見た「脇本陣跡」(左)の古民家が見えてきた。今回のスタートはここから。今日も良い天気だが厳しい暑さになりそうだ。

4~5分歩いたらちょっと寄り道を。脇道に入って100mほど歩いた所に「殿畑遺跡」(右)。といっても説明板でその存在を知るだけだが縄文晩期から弥生初期にかけてのもので土器や石器が出土しているという。

街道に戻り釣橋川橋を渡ると姫街道を解説した地図が掲示されているのだが傷みが激しくほとんど読み取れないのが残念。

緩い坂道を下って行くと「秋葉常夜灯鞘堂」(左)が。何度も修理されているのだろうが説明板に「明治14年の棟札があり、石灯篭は大正15年2月建立の刻字がある」と記されている。

街道はこの先で国道362号に合流。5分ほど歩いたら右の坂道を上ると墓地の中に「山論犠牲者の碑」(右)が。入会権の揉め事を代官所に訴えたが聞き入れてもらえず江戸の奉行所に上訴。全面勝訴を得たが越訴は難く禁じられた時代、訴えた庄屋2名とその子どもが打ち首に。墓石が並ぶ最左側の「山論犠牲者供養塔」(右)に刻まれた文字は「寛永十九年八月三日当村作之甚左衛門岩蔵外四童子・・・・祖ノ功績ヲ偲ブ」 と。

街道に戻り5分ほど歩いた日々沢集落センターの前にも秋葉常夜灯鞘堂がある。鞘堂はちょっと荒れているが納められている常夜灯は木製の素晴らしいもの。撮影を失敗したのが残念。

その先10分ほどに華蔵寺の朱鮮やかな「山門」(左)が。現在は曹洞宗の寺院だが平安時代には真言宗の寺院として存在していたという古刹。 山門の近くに道標があるということで探したが残念、見つからず。

華蔵寺の先は「板築(ほうずき)駅跡」(右)。説明板によると「平安時代の承和9年(842)、橘逸勢(はやなり)が謀反で流罪となり板築駅で死去」とある。この駅は天長10年(833)から承和10年(843)の10年しか存在しなかった。

板築駅跡のすぐ先、右側の坂道を上りミカン畑の間を通る道が旧道だが、すぐに国道に合流。

国道を10分ほど歩くと右へ上がる坂道があるが ここが旧道。坂を上りきると江戸から72番目の「本坂一里塚」(左)が左右一対で現存。左右一対で現存とは貴重な。

一里塚向う側の「馬頭観音堂」(右)に祀られているのは6体の馬頭観音。真ん中の馬頭観音は文久3年(1863)に建立されたもの。国道の工事などで行き場を失った石仏がここに集められたのだろう。
旧道は馬頭観音の先から坂を下り国道に合流。

国道に合流した先に左へ入る道があるが ここが旧道。5分ほど歩くと「本坂関所跡」(左)に説明板が建てられている。 この関所は戦国時代から置かれていたが寛永元年(1624)に気賀関所が設置されたことにより廃止となった。

その先数分歩いたら国道を横断して「橘逸勢神社」(右)に寄り道を。この神社は先ほど通ってきた板築駅で病没した平安時代の三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)の一人、橘逸勢(はやなり)を祀った神社。階段を上がった正面に大きな立石があるが これは逸勢の墓と伝えられている。

街道に戻るとその先に見えたのは「高札場跡と秋葉常夜灯鞘堂」(左)。高札は立派な石垣の上に建てられたようだが、その石垣が残されているのは珍しい。 常夜灯は文化4年(1807)に建立されたもの。

本坂村は本坂峠を行き来した大名や旅人が休憩する間宿として賑わっていた。高札場跡対面の細い道を入り150メートルほど歩いた先に梅藤清左衛門が務めた「茶屋本陣の長屋門」(右)が残されている。

茶屋本陣から街道に戻り5分ほど歩くと三叉路となるが姫街道はここを右へ上がっていく。

坂を上りきると国道に合流。すぐ先の右に入る道が旧道で山裾に見えたのは「弘法堂」(左)。 金銅製と御影石の2体の弘法大師像が祀られているが旅人が本坂峠を無事に越えられるよう祈ったのだろう。

この道は100mほどで国道に合流。すぐに右側の細い上り坂の道があるがここが「本坂峠の登り口」(右)。この先は石畳道を上っていくのだが この石畳は江戸時代からのものではなく昭和34年(1959)に当時の電電公社が電話線工事のために敷いたもの。

この先は木陰の中の石畳道を快適に歩けるはず、と思ったが数日前に降った雨の影響で蒸し暑いことこの上ない。

ほどなく「鏡岩」(左)に到着。東海道鈴鹿峠の鏡岩は「山賊が旅人の動向を窺うために使っていた」のだが、こちらの鏡岩は「旅の女性が自分の姿を映して身づくろいした」という。

アスファルトの車道を横断した先は椿の原生林。樹齢200年以上の木もあり1~3月は椿の花のトンネルが楽しめるという。この先も上り坂が続く。

ようやく標高328mの「本坂峠頂上」(右)に到着。頂上といってもここは鞍部、しかも樹木が繁っており見通しはよくない。頂上が県境になっており、この先は愛知県。

頂上から3~4分下ると岩場から清水が湧き出しているがここは「弘法水」(左)。その昔、弘法大師がこの地を通った際、喉を潤したとされる言伝えが。 その先のジグザグに下る道を嵩山七曲りと呼ぶが七曲りどころか九十九折。途中に座禅岩なるものがあるそうだが見落としたようだ。

さらに下って旧国道を横断し階段を下りると「ヒカゲワラビ群生地」(右)がある。この一角だけに群生しているとは不思議だね~ 群生する条件があるのだろうか。

4~5分歩くと 「江戸ヨリ七十三里」 と記された標柱が建てられているが、ここは「嵩山(すせ)一里塚」(左)。直径10m、高さ2mほどで左右両塚が現存という貴重な遺跡。

ほどなく緩い下り坂。その先に 嵩山不動滝方面 の案内標識がある三叉路に差し掛かるが ここに「左ふどうさま」(右)とひらがなで刻まれた道標が1基。この奥に2条の小さな滝があるということだが今回はパス。

ふどうさま道標の先あたりからミカン畑が広がり人家も見えるようになった。やっと本坂峠を越えることができたようだ。

嵩山宿の入口、森下公会堂の対面に立派な「姫街道道標」(左)が。行き先は「西 嵩山宿 東 本坂峠」。
側面には江戸期の歌人・香川景樹が本坂峠で詠んだとされる歌が刻まれている。
   ましらなく 杉のむらだち 下にみて 幾重のぼりぬ すせの大ざか  景樹

集落の中を歩いていると手作りの「嵩山宿 夏目本陣」と記された案内板があるが、その後ろが「夏目本陣跡」(右)。その先に姫街道の立派な案内図が掲示されている。それによると嵩山宿には1軒の本陣と11軒の旅籠があった。また夏目本陣の建て替え前の写真も掲示されているが屋敷塀に囲まれた茅葺の立派な建物だ。

本陣跡から数分歩くとレンガ塀に囲まれた「秋葉常夜灯」(左)があるが これは文政10年(1827)に建立。地域の人々によって大切に守られ今でも毎日、燈明が灯されている。

街道はその先の嵩山交差点で国道362に合流。この先は国道を歩くのだが その前に正宗寺(しょうじゅじ)に寄り道を。
鎌倉時代の応仁年間(1293~99)に創建されたと伝わる古刹。山門を入った先の「勅使門」(右)は本堂と共に安政2年(1856)の建立。この寺は別称、蘆雪寺とも呼ばれているが長澤蘆雪、狩野元信、狩野正信、丸山応挙など第一級の絵画を所蔵する文化財の宝庫。

姫街道の案内図によると国道に合流した街道は天神川の手前で左に曲がり突き当りを右に曲がって再び国道に合流。天神川手前には阿弥陀堂、観音堂や高札場があったようだが今はその痕跡が無い。また右手奥の山裾に永禄5年(1562)に今川氏真軍に攻められ落城した市場城跡がある。

国道を十数分歩くと、ほんの僅かだが旧道が残されている。その旧道に入り突き当りを左に曲がると長楽寺。
境内奥の もやいの塔 の右下に「石仏」(左)が並んでいるが右から二番目は道標を兼ねており、光背に「右ごゆ道左よし田道」 と刻まれている、らしい。が読み取るのが難しい。

街道に戻り数分、道路際に「秋葉常夜灯」(右)があるが これは文政3年(1820)の建立。手前の自然石は道標で、刻まれた行先は「右豊川 左豊橋」。豊橋とは江戸時代の吉田宿。明治の廃藩置県で吉田から豊橋に改名。ということはこの道標は明治以降のもの。

さらに数分、竹林の前に「姫街道長楽一里塚碑」(左)が据えられているが これは豊橋市教育委員会吉田の宿を考える会が設置。
左右に刻まれている文字は「左 江戸より七十四里 右 京より五十三里」。

この先にバス停・和田十字路東があったので今回の旅はここまで。和田辻はこのすぐ先。


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