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姫街道 道中記

①見付宿から小豆餅  ②小豆餅から落合橋  ②落合橋から西気賀   ③西気賀から三ヶ日  ④三ヶ日から和田辻  ⑤和田辻から御油追分

⑤和田辻から御油追分まで 街道地図

姫街道の旅、最終回は豊橋の和田辻から東海道・御油の追分まで。
今回のコースは国道362号、県道5号を歩くコースであるため往時の面影を探すことは難しく見どころも
少ないが、三明寺、豊川稲荷、三河国分寺跡が単調な街道歩きに変化を与えてくれる。
姫街道の出発地、東海道見付宿には 「これより姫街道 三州御油宿まで」 と記された案内板があったが、
御油の追分には 「これより姫街道 遠州見付宿まで」 と記された案内板が設置されていた。

平成30年7月24日

和田辻交差点を横断し緩い坂道を下ると右の土手上に「馬頭観音と辨慶首塚松碑」(左)が。ここで弁慶とは。 碑文には次のように刻まれている。「是爲辨慶首塚松有二樹直径各可七尺・・」と漢文が刻まれているので詠みずらいが、その二樹が明治26年(1893)と明治32年(1899)に倒れてしまったので地元の有志が明治34年(1901)に碑を建てた ということのようだ。だが弁慶に関する記述は無い。

坂を下りきると小倉橋を渡るのだが その手前左手の小高い山は「高井城跡」(右)。南北朝時代、南朝の遺臣であった高井主膳正の居城であったと云われている。

小倉橋を渡り10分ほど歩くと国道は左に曲がっていくが姫街道は真っ直ぐ。やがて豊川の土手上。この先に「当古の渡し」(左)があった。今は藪に阻まれ近づけないので国道に戻り当古橋から渡し跡付近を撮影したのが左写真。

当古橋を渡ると左手彼方に当古橋公園が見えるがここは「旧中山家跡」(右)。
徳川家康が浜松城主のころ、本坂道を通って岡崎と浜松を行き来したが ある時豊川の増水で立ち往生。 このとき中山家の先祖が 船渡し をした功績により渡船の御用を任じられた。 以来、安政6年(1858)までの二百数十年間 当古の渡しを運営。その後、村営となったが昭和9年(1934)に旧当古橋が完成し三百数十年に及ぶ渡船の歴史が終了。

当古橋の袂から土手上を100mほど上流へ歩くと 当古の渡し跡 付近となり、左手の土手下から「旧道」(左)が伸びている。道の両側には格子戸の家や町屋造りの家などがあり少しだけ旧道の雰囲気が。

ほどなく文政2年(1819)建立の「秋葉常夜灯」(右)があるが その後ろの神社は秋葉神社だろうか。

この旧道は10分ほどで国道362号に合流。元々は合流点からさらに先まで旧道があったようだが今は消滅状態。

三谷原神社、寿命院を通り過ぎて国道151号を地下道で横断すると「熊野神社」(左)の参道が森の中へ。歴史ある神社のようだが由緒書きによると紀伊・熊野より新宮大明神を奉斎創始とある。弘治2年(1556)の棟札に奉造立新宮大明神と記されているがこの時に創立されたかは明らかではない。

この先は県道5号。しかし相変わらず車の通行が激しい。
5~6分歩いたら一歩裏道の三明寺に寄り道を。駐車場の奥に「鳥居」(右)が見えるがここは三明寺の参道。
寺院に鳥居? 理由は後ほど。

鳥居を潜ると見えたのは国指定重要文化財の「三重塔」(左)。享禄4年(1531)の建造で、一層、二層を和様に、三層を禅宗様式に造られており極めて珍しい。下から仰ぎ見ると垂木の配置が二層と三層で異なることがわかる。

「本堂」(右)は正徳2年(1712)の再建で愛知県指定の文化財。堂内には天文23年(1554)建造の国指定重要文化財・宮殿(くでん)が納められており本尊の弁財天が安置されている。寺伝によると大宝2年(702)、文武天皇がこの地で病にかかったが弁財天の霊験で全快したことから堂宇を建立し弁財天を祀ったという。参道の鳥居は弁財天が祀られているからだろう。

JR飯田線の姫街道踏切を渡ったらもう一か所寄り道を。 向った先は豊川稲荷。

稲荷というと神社と思われるが此処は妙嚴寺という曹洞宗の寺院。本尊は千手観音だが鎮守として祀られているのが豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)。吒枳尼眞天が稲穂を荷い白い狐に跨っていることから、いつしか 豊川稲荷と呼ばれるように。創建は室町時代末期の嘉吉元年(1441)。今川義元の庇護が厚かった。

県道5号から右に曲がり向った先で出迎えてくれたのは明治17年(1884)に上棟改築された「総門」(左)。
総門の先に見える「山門」(右)は天文5年(1536)に今川義元公が寄進したもの。

山門の先に大鳥居が見え、その先に本堂ならぬ「大本殿」(左)が。明治41年(1908)に着工し22年後の昭和5年(1930)に竣工。ここに豊川吒枳尼眞天の本体が祀られている。

豊川稲荷は神社ではないため真っ赤な鳥居のトンネルは無い。変わりにあったのが千本のぼり
千本のぼりに導かれて向かった先は「奥の院」(右)。この建物は文化11年(1814)の建築で旧拝殿。大本殿の新築に伴い奥の院の拝殿として移築したもの。    まだまだ見どころが沢山ある豊川稲荷だが先を急がねば。

街道に戻ったら県道をてくてくと1時間強。豊川市役所、長栄寺、諏訪神社前を通って亀ケ坪交差点まできたら三河国分寺跡に寄り道を。途中、諏訪一里塚跡を探したが見つからず。

交差点を右に曲がり緩い坂道を上って行くと16世紀に再興された現・国分寺の建物が見えるが、その周辺が「三河国分寺跡(左)で趾碑と説明板が設置されている。180メートル四方の敷地は筑地塀で囲まれ、中に七堂伽藍が建つ堂々たる規模だったという。

再興された国分寺の横に「三河国分寺の銅鐘」(右)が下げられている。説明板によると、製作年代は奈良時代とも平安時代とも考えられている。80個あった乳と呼ばれる突起物が今は欠け落ちて20数個。「弁慶が引きずったから」などという伝説もあるとか。

国分寺跡の奥に「国分尼寺跡」(左)がある。こちらはかなり整備されており金堂基壇の復元や講堂跡の整備が行われ国分尼寺史跡公園として開放。

中でも見どころは「復元された中門と回廊」(右)。遺構の真上に実物大に復元したもので国産の桧を使った木部の仕上げはヤリガンナを使い部材は朱塗りするなどこだわった造り。
向かい側の 天平の里資料館 は疲れた足の休憩に最適。

国分寺跡の西側に鎮座する「八幡宮」(左下)は白鳳年中(七世紀後半)に豊後国の宇佐八幡宮から勧請されたと伝わる古社。

奈良時代に三河国分寺が建立されると国分寺の鎮護の神としても崇められた。その後も源頼朝、今川義元らから多くの寄進を受け徳川家康からは社領150石を拝領。

県道に戻り10分ほど歩いて左に入ると鬱蒼とした森が広がるが ここは「三河総社」(右)。古代、国司は赴任国内全ての神社に参拝する慣わしがあったが いかにも大変。ということで国府の近くに総社が作られ ここに参拝することで全部の神社に参拝したことにしたという。
ということはこの近くに国府があったことになるが発掘調査の結果、総社の東側一帯で国府跡を確認。

街道に戻り5~6分、上宿交差点手前を右に入ると三河地方最大規模という船山古墳がある。残念ながら隣接道路の開削工事で多くが削られてしまったことや木が生い茂っていることで古墳とは分かりづらい。
古墳の上に鎮座するのは「上宿神社」(左)。

上宿交差点を渡り側道に入って行くと右手高台に「芭蕉句碑」(右)が。
    かげろふの我が肩に立紙子かな はせを翁
寛保3年(1743)、芭蕉翁50回忌に国府の俳人・米林下が建立したもので東三河地方では最古の句碑。

県道5号の側道を歩き、名鉄名古屋本線を越え、真っ直ぐ進むと目的地の御油の追分、となるはずだったがそうはならなかった。姫街道の延長上を国道1号が遮って向うに渡れない。
追分交差点まで歩き100mほど戻って姫街道旧道に。

旧道に戻り行力交差点を越えるとその先が「御油の追分」(左)。ついに姫街道踏破です。

追分には 「秋葉常夜灯・秋葉三尺坊道標・砥鹿神社鳳来寺道標」(右)とともに遠州見付宿にあった案内板と同じデザインの「これより姫街道 遠州見付宿まで」(右)と記された案内板が設置されている。

帰りは名鉄・御油駅にするか国府駅にするか迷ったが特急が止まる国府駅へ向かうことにした。

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