表紙へ戻る



 ①南柏から山崎宿   ②山崎宿から東宝珠花   ③東宝珠花から関宿城  ④関宿台町通りから境宿  ⑤境車庫から武井宿  ⑥武井宿から小山工業団地前   ⑦小山工業団地前から日光街道合流点

①南柏から山崎宿まで         街道地図

日光東往還は かつての小金牧内を通っていた水戸街道の小金宿と我孫子宿の間にあった追分から分岐し、
20里34町(約82km)先で日光街道に合流。日光街道の東側であったことから東往還と呼ばれていたが、
幕府の正式名称は 「関宿通多功道」 。
水戸街道との追分から日光東往還に入り、小金牧開墾の第4番目であった豊四季、その先の流山市を通って
野田市に入ると最初の宿場である山崎宿となる。この間の街道はほとんどが小金牧の中を通っていたことから
江戸時代の遺構は少ない。また流山おおたかの森駅周辺は大規模開発が行われ旧道がほぼ全滅常態。
平成28年3月10日

スタートはJR南柏駅前を通る旧水戸街道を400mほど北に歩いた「水戸街道との追分」(左)(陸橋下の交差点)から。
JR常磐線を跨ぐ陸橋は車専用のため側道を線路際まで歩き階段を上って向う側へ。

数分歩くと現・水戸街道(国道6号)を横断するが ここの信号機脇の表示が「旧日光街道入口」(右)。日光へ向かう街道であったことから地元住民は日光街道と。

追分からしばらくは小金牧の中を通っていたため江戸時代の遺構は見当たらず明治に入って創建された神社が散見できるのみ。
「豊四季稲荷神社」は明治26年(1893)、開拓村の五穀豊穣の神として創建。境内に建てられた豊四季開拓百年記念碑に超長文で開拓時代の苦労が刻まれている。
「一本松稲荷神社」は由緒が無いため詳しい事は分からないが社殿横に「三代目松」の碑があることから初代の一本松に因んだ神社名かと。
「永寿稲荷神社」は明治17年(1884)の創建。開拓民の五穀豊穣を願ったもの。
・永寿稲荷神社の境内に建てられている「木釘記念碑」は 開拓農民が副業で生産した木釘が特産品になっていたことを後世に伝えるもの。

ほどなく柏市から流山市に入るが その境界線上にある交差点を右に曲がると公園の前に「一里塚標柱」(左下)が。

?一里塚 説明板によると「この場所に一里塚があったという史実は見当たらないが流山おおたかの森駅周辺の土地区画整理事業に伴い日光東往還の脇に一里塚をイメージした築山を設けた」とある。説明板に「クランク状の道」などの表現もあるが区画整理事業の結果この辺りの旧道はほぼ消滅。クランク道も当時の道かは不明。

近い道を選んで「流山おおたかの森駅」(右)前まで歩き筑波エクスプレスの駅舎下まで来ると再開発の真っ最中で旧道が全く消滅。  コメント:駅の西側は道路事情が地図と違っています。現地で確認してください。

工事現場周辺の道をうろうろしてやっと探し当てたのが駅西側300mほど先の江橋商店前からの旧道。

そこから7~8分歩いた先の交差点まで来たらちょっと寄り道を。
右に曲がって数分、東武野田線の手前に「庚申塔が3基」(左)。建立年は左から、文化2年(1805)、寛政9年(1979)、天明7年(1787)。右側の庚申塔は彫りが深く見応え十分。

街道に戻り初石駅を通り過ぎて数分、思わず写真に撮りたくなるような「見事な屋敷塀」(右)が街道横に。

ほどなく常磐自動車道の上を通るのだが、ここに架けられた橋が日光街道大橋。その先は旧道が消滅状態なので「東武野田線脇の遊歩道」(左)を歩いたのだが雑木の並木道が良い雰囲気だ。

江戸川台駅先の江戸川台西一交差点で県道に合流し旧道が復活。
そこから5~6分歩くと街道際に小さな祠がある。この祠は大正時代に利根運河に沿って造られた「新四国利根運河霊場の69番」(右)。扉を開けて中を覗かせてもらったらお大師様が祭られていた。
 

さらに7~8分歩き浄信寺前を通り過ぎたらちょっと寄り道を。
西深井小学校の脇にある安蒜家(あんびるけ)の墓地に鎌倉時代末期の正和3年(1314))と元享2年(1322)に造られた「板石塔婆」(左)が2基。梵字が刻まれた板塔婆はつい最近造られたように保存状態が良い。

街道に戻り5分ほど先の流山街道を横断した所の小さな祠は「利根運河霊場の53番」(右)。右側の三角な石塔は浅間大神で明治15年(1892)に造立されたもの。

その先の突き当りに小さな祠と石塔群が見えるが これは「利根運河霊場の61番」(左)。 道路際の石塔は文政11年(1828)に造られた成田山道標で我孫子、花乃井、・・・・、などの文字が読み取れる。

成田山道標の後ろにあったのは「馬頭観音2基と道六神」(右)。
道六神(どうろくじん)は村に悪霊や疫病が侵入しないよう村境に祀られた神。旅人の安全も見守っていたという。
ここは見事なクランクが2回続く珍しい場所。  クランク道を抜けると流山街道に合流。

流山街道に入って数分、街道際の「駒形神社」(左)は応永6年(1399)の創建。鳥居脇の椋(むく)の木は源義家(八幡太郎義家)が奥州出陣の折りに立ち寄り愛馬を繋ぎ憩われたとされる椋の後裔なのだとか。

さらに数分歩くと街道際に小さな祠があり「馬頭観音」(右)が祀ってある。 銘を見ると元文4年(1739)とあるので280年近く前のもの。

運河駅の先で渡る運河橋の下を流れる川は明治23年(1890)に完成した利根川と江戸川を結ぶ「利根運河」(左)。
東北・北海道からの物資輸送路として最盛期には年間3万隻以上の船が行き交ったという。

橋を渡った左側に「福之神」(右)なる石造が鎮座。どこかで見たようなと、よくよく見るとビリケンではないか。いったい いつ頃造られたのだろうか?

運河橋を渡って15分ほど歩くと街道際に「六十六部供養塔や多数の石仏」(左)が。

その先にも「庚申塔や石仏」(右)が街道際に建てられている。

「史跡・山崎貝塚」の案内表示があったのでちょっと寄り道を。
国指定史跡の「山崎貝塚」(左)は縄文時代中期から晩期の貝塚を伴う集落跡。この場所は海から30km近い奥地、かつては海水がこの辺りまで入り込んでいたということだろうか。

街道に戻ると祠があったので覗いてみると「十社子安大明神」(右)が祀られていた。十社とは三毛野命とその妻子9人だが、五十八社大明神というとんでもない大明神もあるようですね。

子安大明神から15分ほど、到着した場所は 野田市山崎 の交差点。ここは日光街道千住宿からスタートした下妻街道がこの交差点で日光東往還に合流。下妻街道はいつか歩きたい街道の一つ。

柏を出発した日光東往還の最初の宿場が山崎宿であるが この辺りが入口。交差点を渡ると「長~い屋敷塀」(左)に囲まれた旧家があり思わず1枚。

その先の山崎郵便局入口交差点向う側の歩道上に「激しく風化した石塔」(左)が1基。文字の痕跡すら分からない。

旧宿場街に入っても宿場時代の面影は感じられないが バス停の停留所名が「山崎宿」(左)。ここに限らずバス停が宿場名や旧町名を守ってくれることが多い。

次の梅郷駅西口交差点の歩道に真新しい「山崎宿碑」(右)が建てられている。文化3年(1808)の山崎宿絵図に道路中央に秋葉常夜灯が描かれていたことから、山崎宿の存在を後世に伝えようと秋葉常夜灯型のモニュメントを設置。

水戸街道との追分を出発してやっと最初の宿場に到着したが ちょっと長い道中だった。東武野田線の梅郷駅が近いので今回の旅はここまで。

次の街道山崎宿から東宝珠花まで      表紙へ戻る