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 ①南柏から山崎宿   ②山崎宿から東宝珠花   ③東宝珠花から関宿城  ④関宿台町通りから境宿  ⑤境車庫から武井宿 ⑥武井宿から小山工業団地前   ⑦小山工業団地前から日光街道合流点

⑥武井宿から小山東工業団地前まで      街道地図

武井宿を出たら一部だけ残っている旧鎌倉街道に寄り道しながらかれこれ1時間半。到着した結城は
鎌倉時代から城下町として発展。街道沿いには明治時代に造られた見世蔵が多く残されており独特の
雰囲気を作り上げている。
結城を出ると ほどなく栃木県・小山に入るが しばらくは工業団地の中をテクテクと。

 平成28年5月12日

日光東往還の旅 6回目は武井宿の旧問屋場斉藤家の長屋門前から。この先の結城宿までは県道17号の単調な歩きが続きそうなのでちょっと寄り道を。

5分ほど歩いたら左の細い道に入ると「武井の大日さま」(左)と呼ばれる御堂が畑の向うに見える。ここは結城百選に選ばれた景色で堂内には大日如来が祀られている。その脇を迂回するように回り込むと南北に走る細い道があるが この道は「旧鎌倉街道」(右)だと云われている。

旧鎌倉街道を5~6分歩くと 十字路の左手向うに鎮守の森が見えるが ここは「三蔵神社」(左)。
神社の軒下に掲げられた説明板によると、この場所は中世の在地領主の館跡だという。その説明板に「・・近くを南北に鎌倉街道が走り・・・」と記されているが この道は鎌倉街道の支道。

ほどなく丁字路に差し掛かるのでここを右に曲がると県道に戻ることができる。県道へ合流したところに「地蔵尊」(右)がひっそりと立っているが説明板などが無いので詳しいことは分からない。

この先は県道を北上して結城まで歩くのだが、何カ所か見どころがある。
「結城百選」 に選ばれたこの地には、
かつては観音堂もあったようだが、
今は何十体もの石仏が並ぶのみ。
道路際に如意輪観音が2体。年代が
読み取れないが、十九夜念仏供養塔と
刻まれている。
作ノ谷交差点際にあった長屋門は、
これまで見たことが無いような大きな
長屋門だ。
ほどなく現れた吉田用水は享保10年
(1725)に造られたもの。今も勢いよく水が
流れている。

ちょっと単調な歩きが続いたがJR水戸線の踏切を渡るとかつての結城宿。見どころが多そうだ。

踏切りを渡り10分程歩いた所にある称名寺は結城家初代・朝光が建保4年(1216)に親鸞の高弟・真仏を招き開基した古刹。街道側の裏門から入り本堂に沿って正面に回る途中で見たのは「結城朝光の墓」(左)。結城家初代の墓にしてはちょっと質素。

本堂正面の「御霊屋門(右)は朝光墓所の入口に室町時代に建立されたもので、寺伝によると朝光公建長門と云われていたが、その門を移設して中門に。

称名寺対面の孝顕寺は結城家15代政朝が永正寺として建立し後に孝顕寺と改称。元禄13年(1700)に結城藩主となった水野家が領内菩提寺としている。朱に塗られた「三門」(左)は江戸時代中期の享保16年(1731)に創建。高覧の下に結城家(巴)、松平家(桐)、水野家(沢鴻)の家紋が。

孝顕寺は水野家の菩提寺であるが歴代藩主は江戸の菩提寺である定林寺に葬られており ここにあるのは結城藩最後の藩主であった「水野勝知の墓」(右)だけ。

孝顕寺を出たら突き当りの丁字路を右に曲がる道が東往還だが左へ曲がって寄り道を。
数分歩いた先、木町交差点際の山門前に「追分道標石灯篭(常夜灯)(左)が据えられている。刻まれている文字は右側灯篭の台座に「右 小山 左 さかい」、左側の灯篭には「向 水戸海道」。

山門を入った奥の「毘沙門堂」(右)はちょっと離れた光福寺の境外仏堂で市指定文化財の毘沙門天像が祀られており結城七福神の一つ。

丁字路まで戻ると武勇酒造の煙突が見えるが街道沿いの見世蔵は「武勇酒造の店舗」(左)。幕末に建設されたもので国登録有形文化財。その他に煙突や脇蔵、仕込み蔵なども登録有形文化財。初代保坂勇吉がこの地で酒造りを始めたのが慶応3年(1867)。「小さな酒蔵でないとできない酒造り」にこだわっているのだとか。

数分歩いた先の交差点向うに見える見世蔵は「小西金物店」(右)。創業は明治8年(1875)だが その時に建てられた店舗でこちらも国登録有形文化財。

東往還はこの交差点を左へ曲がっていくのだがここでも寄り道を。

右に曲がると、ここにも国登録文化財の「秋葉麹味噌醸造の見世蔵」(左)がある。創業は天保3年(1832)と云われているが見世蔵は大正3年(1924)に建設されたもの。

その先の常光寺参道に鎮座している「阿弥陀如来座像」(右)は佐野の鋳物師の作と云われているが製作年代がはっきりしない。像の背に小山城主秀綱が永禄9年(1566)に修復したとの銘が刻まれている。
本堂前に南北朝時代の建立と伝わる六面石幢が据えられているが この石堂と阿弥陀如来座像は結城市指定の文化財。

交差点まで戻ったら右へ曲がってもう少し寄り道を。50mほど歩くと「健田須賀神社」(左下)の鳥居があるのでここにも寄り道を

この神社は明治3年(1870)に健田(たけだ)神社が須賀神社に合祀され現在の姿になったのだが健田神社の歴史は古い。延喜式神名帳に下総国11社の1社として記載されているので千年以上の歴史。一方、須賀神社は結城家初代朝光公が仁治3年(1242)に尾張の津島神社より御神霊を勧請し結城城の鬼門除けとして建立。

もう少し寄り道を。向かった先は「満福寺釈迦堂」(右)。 10世紀ごろの創建と伝わるが、一時、結城城内に移され、慶長年間に現在地へ。参道入り口の石碑は芭蕉句碑

先ほどの交差点まで戻り東往還の旅を続けるのだが結城には見世蔵が沢山あるので見世蔵めぐりも楽しい。(地図にはその一部を入れてある)

数分歩いた先の「住吉神社」(左)は創建年代不詳だが南北朝時代、結城家7代直朝が関城攻略のため北斗七星に祈願、この時、領内の由緒ある七つの神社を結城七社と定め庇護。当社はその一社。

街道西側の「光福寺」(右)には維新期に佐幕派であった結城藩江戸詰家老・水野甚四郎(光福寺で自害)や政府軍参謀・植田楠次郎、あるいは政府軍と対峙した会津藩兵士等の墓が見られる。

光福寺のすぐ先にある「弘経寺(ぐぎょうじ)(左)は結城城18代城主結城秀康(家康の次男)がその息女松姫追善供養のため建立。 後に学問所として関東十八檀林の一つに数えられ広く知られた存在だった。

与謝蕪村は郷土の俳人・砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼って結城を訪れこの寺に長く滞在。
山門を入った右側の石碑は「蕪村句碑」(右)。
 肌寒し 己が毛を噛む 木葉経  裏道人釋蕪村

街道に戻り数分先を左に入った奥の「妙国寺」(左)は南北朝時代の貞和元年(1345)開山と伝えられている。当寺には結城の俳壇の中心人物で砂岡雁宕の伯父である北寿(早見晋我)の墓がある。
蕪村が師と仰ぎ、兄と慕っていた北寿が75歳の生涯を閉じたことを知りその思いを詠んだのが追悼の俳詩。

境内左手の石碑は「北寿老仙を悼むの碑」(右)。
  君あしたに去りぬゆうへのこころ千々に何そはるかなる・・・・    釋蕪村百拜書
   

妙国寺を出て数分、左奥の「安穏寺」(左)は奈良時代に律宗の寺として創建されたが室町時代の応安4年(1371)結城家8代直光が源翁和尚を招いて開基し禅宗の寺として改めて創建。
結城家16代正勝は自身の菩提所としており17代晴朝は自身の吉凶を当寺で占っている。

参道途中の「山門」(右)は18世紀後半に建てられたもので、外壁が朱色に塗られていることから赤門と呼ばれ 山門の下を通るとキツネ憑きが治るとの言い伝えが。 今でもキツネ憑きが?

安穏寺を出るとその先で県道は左へ曲がって行くが東往還は真っ直ぐの細い道。
この道を100mほど進むと「神明神社」(左)があるが この神社は結城七社の一社。典型的な神明造りの神社だが七社の一つという割には小規模な。

ん? 誰かに見られているような、でも誰もいない。と思ったら猫ちゃんがじっとこちらを見ているではないか。
可愛いね~

街道は神明神社前の丁字路を左に曲がり次の丁字路を右へ曲がって神明橋を渡り、さらに右へ曲がって吉田用水沿いを進んで行く。

この先は小山工業団地の中を歩く事になるが ほどなく寺野東遺跡の看板があったのでちょっと寄り道を。
旧石器時代から2千年以上の長年月にわたって縄文人が定住していた場所。遺跡資料館の脇にに未発掘の「寺野東13号墳」(左)がある。

工業団地前に「バス停」(右)があったので今回はここまで。 ここを通るバスは13時34分、14時34分、15時34分の3本のみ。
 

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