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 ①南柏から山崎宿   ②山崎宿から東宝珠花   ③東宝珠花から関宿城  ④関宿台町通りから境宿  ⑤境車庫から武井宿 ⑥武井宿から小山工業団地前   ⑦小山工業団地前から日光街道合流点

③東宝珠花から関宿城まで(本道ルート)     街道地図
 
東宝珠花の日枝神社前から江戸川の河川敷に入った街道(今は消滅)はほぼ一直線に北西方向に進み
工業団地入口の手前辺りから二手に分かれる。
左へ曲がる道が本道で工業団地の中を通り関宿城大手門通りに通じるルート。 もう一本は工業団地
入口から右へ曲がり台町通りを経て関宿台町で本街道に合流。
今回の旅は本道を通って関宿台町に入り、ちょっと遠いが関宿城博物館まで足を伸ばし関宿城の雄姿を
眺めることに。 コメント:現在の関宿城は江戸川のスーパー堤防上に造られており本来の関宿城があった場所ではない。

 平成28年3月31日

東宝珠花の日枝神社前から左の旧道に入り「江戸川の堤防」(左)に上がると菜の花の絨毯が素晴らしい。
この先の旧道は河川敷を北上していたが今は堤防工事が行われ消滅状態。なので堤防上の遊歩道を散歩気分で。

しばらく歩くと右下に神社が。鎮守の森など無く 取って付けたような雰囲気が気になり堤防を下りて見に行くと「八坂神社」(右)であった。説明碑に「江戸川改修工事に伴い当所に移転致し・・・・・」などとある。

この先は堤防に戻らず県道17号を歩く事に。
ほどなく香取神社が見えたのでちょっと寄り道を。この神社も江戸川改修工事で当地へ移転。社殿前に彫りのしっかりした「庚申塔」(左)があったので銘を見ると宝暦3年(1753)と刻まれている。

神社の反対側の石碑は「日光東街道松並木碑」(右)。石碑の説明文は「この日光東街道は日光街道のバイパス的な役割を果たす重要街道。 関宿街道、久世街道などと呼ばれたが道中奉行の正式名称は 関宿通多功道」。 わずかに残った松の巨木が往時を物語っている」。

松並木からかれこれ30分、今は看板を下ろした見晴屋の脇から左に入る砂利道が「本道ルートの入口」(左)。ちょっと分かりにくいが すぐ先のNTTの電波塔が見えたら左に入るとよい。

砂利道はすぐにアスファルト舗装に変わり その先の工業団地の中を抜けていく。30分ほど歩いた所にあったのは「地蔵堂」(右)。詳しい事はわからないが中を覗くと華やかな衣装のお地蔵様が。

すぐ先の寺院は永仁3年(1295)、真教上人が創建したという「吉祥寺」(左)。簗田氏が関宿城を築城した際、水海(みずうみ・古河市)から移された寺院で関宿藩の時代には関宿城・正午の鐘を鳴らしていたという。
吉祥寺のすぐ先左側の神社は香取神社。裏に江戸川の堤防が迫っているが ここも河川敷改修工事で移転。

数分歩くと「見事なクランク道」(右)。ここを枡形道と記述した資料が見つからないが枡形道なのだろう。向うに見える釜半商店は江戸時代から商いを続けているのだという。

その先数分で江戸川の堤防に突き当たるが その右下に見える寺院は寛正5年(1464)に創建された「雲国寺」(左)。
かつては関宿城大手門に続く本街道に面していたが残念ながら今は土手の下に。
本堂の格天井に百人一首や花の絵が極彩色で描かれているそうだが本堂は戸閉。残念ながら見ることができない。

この先は堤防に上がらず側道を10分ほど歩くと「稲荷神社」(右)が鎮座。隣に大日堂があるが共に江戸川の改修工事により移転してきたようだ。

側道から県道へ合流した先で右へ曲がると「関宿関所跡碑」(左)。江戸と地方を往来する船が必ずここを通り利根川に入ったことから 江戸川流頭部の堤防上に積み荷や人改めを行うための関所を設けたのだが その管理は関宿藩が行っていた。

関所跡碑のちょっと奥に鎮座している 「香取神社」(右) も江戸川の改修工事で移転してきたもの。かつての江戸川沿いの街道がいかに賑やかであったかがわかる。

関宿台町交差点まで来たら右へ曲がって昌福寺に寄り道を。創建は天長5年(829)という古刹。当初は水海(茨城・古河市)にあったが梁田氏が関宿城を築いたとき関宿に移築。境内にある文化15年(1818)建築の「不動堂」(左)は元々は不動院にあったもの。不動院の廃寺に伴い昌福寺に移されたもので羽目板や欄間の彫刻が素晴らしい。一見の価値あり。

交差点まで戻るとその向こうは鈴木貫太郎記念館。 終戦時の内閣総理大臣であった鈴木貫太郎は昭和23年(1948)に大往生。街道際に建てられたのは「終焉の地碑」(右)。

数分先を左に入ると長い参道の先に「光岳寺山門」(左)が見える。山門の柱にはなんと葵の御紋が掲げられているではないか。この寺は徳川家康の異父兄弟で初代関宿藩主であった松平康元が母於大の方のために慶長7年(1602)に創建。

参道途中の「子育て地蔵」(右)は康元が母・於大の方を偲んで建立したもの。山門を入った左手の供養塔は第七代関宿城主であった牧野信成が、父・康成のために建てたもの。

博物館入口交差点まで来たら ちょっと遠いが博物館まで足を伸ばすことに。途中にあったのが「鬼門除け稲荷」(左)。 寛文9年(1669)、城主となった久世弘之が城内に建立。

先ほどから見えていた「関宿城」(右)が目の前に見えてきた。江戸川のスーパー堤防の上に造られたが天守閣は古い記録に基ずいて再現されている。内部は残念ながら撮影禁止なのでお見せできない。

内部は撮影禁止だが景色はOKということで天守から撮影したのが利根川と江戸川の分流点。
ここは利根川を上ってきた東北地方の物資や銚子沖の海産物がこの分流点で江戸川に入り、江戸へ運び入れたという水運物流の大動脈であった。

今回の旅はここまで。次回は関宿台町通りを通って利根川を渡り境宿まで歩く予定。


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