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 ①南柏から山崎宿   ②山崎宿から東宝珠花   ③東宝珠花から関宿城  ④関宿台町通りから境宿  ⑤境車庫から武井宿 ⑥武井宿から小山工業団地前   ⑦小山工業団地前から日光街道合流点

小山東工業団地前から日光街道合流点まで     街道地図

日光東往還の旅 最終回は前回終了した小山東工業団地前から出発。仁良川、薬師寺、多功(旧宿場)を通って
日光街道合流点まで約14km。薬師寺までは見所が結構多いが その先は坦々とした歩きが続く。
早春に歩き始めた日光東往還だが麦秋を迎えてしまいました。あと一週間遅ければ刈り取りが終わって麦秋は
見られなかったかもしれない。
この区間は交通の便が極めて悪い。多功に JR石橋駅へ行くバスがあるが1時間に1本なので注意。その先は
日光街道合流点の国道4号までバス停は無い。

 平成28年5月26日
工業団地の中を抜け麦秋の中の街道を歩いていると別処山公園の案内表示があったのでちょっと寄り道を。

公園の一角は「別処山古墳」(左)。6世紀後半ごろに造られた前方後円墳で全長は35mというからそれほど大きくはない。この周辺には多くの古墳が造られているのだとか。

公園の外周に沿って左へ回り込むと「百体観音堂」(右)があるので中を覗いてみると十一面観音菩薩像を中心にして左右に聖観音・如意輪観音・馬頭観音などの小さな仏像が沢山並んでいる
製作年代は不明だが、西国、秩父、坂東の霊場百カ所の観音像を模造したものと伝えられている。

この先は街道に戻らず絹板集落を北上すると十字路の向うに並んでいるのは御輿舎(神輿倉庫)「十九夜塔」(左)の祠。 如意輪観音の思惟の姿がなんともいいですね~

十字路を左に曲がって数分、「星宮神社」(右)がありました。詳しいことは不明だが、建久年間(1190~99)、結城家初代・七郎朝光の崇敬があった神社だという。

星宮神社から数分歩くと街道に戻れる。
街道を北上し県道44号を横断すると かなり大きな「長屋門」(左)があり、数分先にも大きな長屋門が。

その先のプレス工業仁良川寮は「秋田藩出張陣屋跡」(右)。 秋田藩佐竹氏の飛び地であった下野領を管理するために設けられた陣屋だが説明板や表示の類いが無いため詳細は分からない。

数分先の覆屋内に「地蔵尊と十九夜塔」(左)が納められている。近隣に鎮座していたものを集めたのだろうか。

その横にあるのはかなり大きな「石造宝篋印塔」(右)。 享保14年(1729)に造立されたもので高さが4.5mもある大型なもの。

宝篋印塔の後ろにある御堂は「八坂神社と大杉神社」(左)。神社らしからぬ建物がなんとも。

その後ろに見える朱鮮やかな建物は「薬師堂」(右)。本尊の薬師如来立像、日光・月光菩薩、十二神将が安置されている。薬師如来は厨子に納められており、御開帳は三十三年に一度。気の長い話だね~

街道からちょっと奥に入った満福寺の山門前にあったのは「樹齢300年の椿」(左)。一重のヤブツバキだが満開の時に見たいものだ。

街道に戻り4~5分、公民館の脇に「大日如来堂と八坂・大杉神社」(右)が並んでいる。残念ながら由緒書きや説明板の類無し。 中を見ることもできない。こちらも神社らしからぬ建物がなんとも。

公民館の裏に回ると「愛宕神社の鳥居」(左)があり その先に朱鮮やかな灯篭に守られた参道が。
当社の創建は延喜年間(901~923)と伝わる古社。結城朝光が崇敬し十石の祀田を寄進したと伝えられている。

街道に戻らず神社脇から住宅地の中を進むと祠の中に祀られていたのは「滝尾台地蔵尊」(左)。享保の飢饉に見舞われた享保17年(1732)に建立されたもので世の安寧をお地蔵様に祈ったのだろう。

街道に戻り新4号国道の高架下を通ると「薬師寺南遺跡」(左)と題された説明板が。古墳時代から平安時代の集落跡で、国道工事に伴い発掘調査が行われ住居跡や遺物が多く出土した場所。

この辺りは国道工事や旧道の各幅工事が行われた結果、旧道の面影がすっかり無くなってしまったが薬師寺町に入ると僅かな区間だが「旧道が残っている」(右)。
旧道に入ると祠の中に十九夜塔や馬頭観音が祀られており、街道時代面影が。

旧道から県道に戻り5~6分歩いたら龍興寺に寄道を。

目を引いたのは平成6年(1994)に再建された「山門」(左)。平城宮の朱雀門を平屋建てにしたようなデザインに思わず1枚。龍興寺は下野薬師寺の別院として天平宝字5年(761)開基の古刹。正面の本堂は安政7年(1860)に再建。

境内左手、五輪塔のある場所は「道教の墓(道教塚)(右)。道鏡は天皇に准ずる法王にまで上り詰めたが その後の権力者の思惑で下野薬師寺の別当職に任じられ宝亀3年(772)に終焉。亡骸は元からあった古墳に葬られたと伝えられている。

街道に戻ったらまたまた寄り道を。向かった先は「天狗山雷電神社」(左)。
その昔、農夫が雷電宮に願いを捧げていると天狗に姿を変えた大神が現れ「その願い聞き届けたり」と申し 雷の災害を起こさないことを誓ったという。以来、雷電宮を天狗山雷電神社に改めたという。

その先の「薬師寺八幡宮」(右)は貞観17年(875)に清和天皇の勅諚により京都の石清水八幡宮から勧請され創祀された古社。 本殿・拝殿は寛文2年(1662)と3年に再建されたもので栃木県文化財。

薬師寺八幡宮脇から次に向かったのは下野薬師寺跡。その途中に「薬師寺塔跡」(左)がある。 説明板によるとこの塔は基壇の大きさから五重塔跡。

奈良時代、日本三戒壇(奈良・東大寺、福岡・観世音寺、下野・薬師寺)の一つとして設置され、東国仏教界の中心的役割を果たしていたのが下野薬師寺であった。戦国時代に戦火で大半の堂塔を焼失。残念なことだ。

塔跡の横を通って街道を横断した先が下野薬師寺跡の中心地。説明板等が設置され「回廊跡」(右)が整備されている。
 

回廊跡の近くに「安国寺六角堂」(左)があるが この場所は薬師寺戒壇跡。江戸時代に建てられ釈迦堂と呼ばれていた。 建物はその名の通り外形はもちろん、柱、礎石までが正六角形。

薬師寺の跡地に建つ「安国寺」(右)は足利尊氏が古代の国分寺にならって全国に安国寺を建立した際、薬師寺を安国寺に改名。現在の本堂は明治38年(1905)に再建されたもの。

薬師寺を出ると次の多功宿まで1時間ほどだが見どころは少ない。

街道際に「馬力神」(左)がひっそりと立っている。日光西街道では時々見かけたが今回の旅では初めてだ。

長屋門が多い東往還だが国道352号を横断する手前に大きな長屋門が2棟連続で。

国道を横断し10分ほど歩くと街道が直角に右に曲がるがこの先から東往還最後の宿場であった多功宿。

右へ曲がって数分、路地奥の「宝光院」(左)は平安時代初期の大同2年(807)創建という古刹。本堂は寛保3年(1743)に建てられた薬師堂を数回に渡って増改修し現在の姿に造りあげたのだとか。
本尊は鎌倉時代の作と伝わる秘仏の鉄佛薬師如来座像。50年に一度の御開帳であるため拝観することが出来ない。

街道に戻っても宿場時代の面影はあまり感じられないが数分先の立派な屋敷門は「旧本陣兼問屋・谷中家」(右)。

交差点のむこう側に「道標」(左)が一本立っている。「南 薬師寺仁? 西 石橋? 北 茂原雀宮 東 上三川??」と四面全部に行き先が刻まれていることから十字路の真ん中にあったのでは。

この十字路を右に曲がったところにあるバス停に「宿多功」(右)と表示されている。旧宿場名のバス停とは嬉しいね~
このバス停には1時間に1本だがJR石橋駅まで行く便がある。この先は日光街道合流点の雀宮までバス便は無い。

数分先の「西念寺」(左)は多功城初代城主宗朝が宝治3年(1249)に佛閣堂を造営し宇都宮城・応願寺の十一面観音を勧請、多功家の守り本尊としたのが始まり。境内の覆堂内で微笑んでいるのは寿老人

西念寺を出て数分、右側の田んぼの中に半島のように突き出た森が見えるがここは「多功城跡」(右)。宝治2年(1248)多功宗朝によって築かれたと云われる。

多功宿を出たら日光街道合流点までまっしぐらに北上。

シーボン化粧品前まで来るとその先はJR宇都宮線によって旧道は消滅。ここは側道から「線路下の歩行者道路」(左)に入り国道4号に突き当たったら右へ曲がっていく。

その前に左へ曲がって「鞘堂」(右)に寄道を。鞘堂と言えば一般的に重要な建物の覆堂のことだが、この鞘堂は室町時代、小山・宇都宮合戦の戦死兵の刀の鞘を集め埋めた場所。

国道4号を宇都宮方向に歩くと道路向う側に「星宮神社」(左)の鳥居が見える。鳥居が見えたら右の細い道に入り丁字路まで来ると先ほど消滅した道が復活。

この丁字路を左に曲がりパチンコ店の駐車場脇を通ると国道4号の「日光街道に合流」(右)。日光東往還の終点です。あっけない終わりであったため写真を撮るのを忘れてしまいました。

コメント:日光街道合流点の写真はGooglのストリートビューから転載しました。


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