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 ①南柏から山崎宿   ②山崎宿から東宝珠花   ③東宝珠花から関宿城  ④関宿台町通りから境宿  ⑤境車庫から武井宿 ⑥武井宿から小山工業団地前   ⑦小山工業団地前から日光街道合流点

⑤境車庫から武井宿まで          街道地図

境宿を出ると約20km先の結城宿まで直線道路の繰り返しで北上。この間に谷貝(やがい)宿、仁連(にれい)宿、
諸川(もろかわ)宿、武井宿、の4カ所の宿場がある。宿場を出ると次の宿場までは見どころが少なく直線道路の
はるか彼方を目指して歩くことに。
境宿までは交通の便は悪くはなかったが境車庫から先は結城宿まで交通の便が極めて悪い。少ない本数の
バス時刻表を充分把握して出発する必要があるが、20km先のJR結城駅まで歩く覚悟も。
 

 平成28年4月13日

境車庫前を出ると次の谷貝宿までの間に幾つかの石塔がある。
かなり風化が進んだ石塔だが、かろうじて
馬頭観音と読める。
この石塔も風化が進んでいるが、
庚申塔のようだ。
「一言主大明神参道入り口」と
刻まれた道標。
風化が進み、元の形が全く分からないが、
近くの人に聞いたところ馬頭観音だそうだ。

谷貝宿(やがいじゅく)   谷貝宿は元和5年(1619)頃の成立とされ関宿藩が管理していた。
境車庫前を出発して40分、農村集落センター信号 先の左路地奥に 「本陣を務めていた初見家の建物」(左)が残されている。地元の古老によると初見家の本家はかなり以前に東京へ移り現在は無住だそうだ。

すぐ先を左に入った奥は文化3年(1471)開山の「遍照寺」(右)。この寺院は猿島坂東三十三観音霊場の十番札所。 参道入り口の御堂は延命地蔵堂、遍照寺前に千手観音菩薩堂

遍照寺入口の対面にかなり大きな石碑が建てられているが これは「初見関吉翁顕彰碑」(左)。
「君ハ文久二年・・・・」 地域経済発展に尽力した関吉翁を讃えたようだが こんな立派な石碑とは幸せ者だ。

谷貝宿の本陣を務めたのは初見家。谷貝には「初見**」と付く商店が結構多い。4~5分歩いた先に「黒板塀のお屋敷」(右)があったが、ここにも初見肥料店の看板が。

数分先の「香取神社」(左)にあまり見かけない石塔がある。社殿左側の石塔群のなかで見つけたのは俱利伽羅龍王
炎となった俱利伽羅龍王が不動明王の剣に巻き付いているもので別名を俱利伽羅不動。

香取神社を出て街道に戻ると彼方まで真っすぐな道。見渡す限り日蔭が無い。「真夏は絶対歩きたくない街道だ」(右)。

仁連宿(にれいじゅく)  仁連宿は正保4年(1647)に仁連村名主が荷物の馬継ぎを始め、慶安4年(1651)に幕府がこれを追認。本陣が1軒あった。脇本陣はない。
谷貝宿を出てかれこれ30分、街道から左に入ると100mほど先の突き当りに「聖観音堂」(左)がある。由緒の類が無いが中を覗くと見えたのは立派な聖観音立像でした。

街道に戻り数分、かなり大きな長屋門があるがここは「ひいらぎ保育園の長屋門」(右)。 テレビアニメの人気キャラクターが並んでいるところが保育園らしくていいね~。

すぐ先を右に入った奥の「大日堂」(右)は何度か修復が行われているが創建は延宝2年(1674)。安置されている大日如来像は元和元年(1597)に鋳造されたもの。

山田十字路まで来るとJR古河駅までのバス便がある。但し、午後は13時台・15時台・17時台に各1本づつのみ。

山田十字路から数分先にも立派な「長屋門」(右)が見える。

ほどなく県道が直角に右へ曲がっていくが その先は仁連(にれい)宿なので おそらく「曲尺手(かねんで)(左)だったのだろう。曲尺手を曲がると妙巌寺と東暫寺が街道を挟んで対面。東暫寺は文治5年(1189)の開基と伝わる古刹。

東暫寺の本堂前にある大木は「樹齢500年という菩提樹」(右)。今は冬枯れだが葉が繁り花が咲くと見応えありそう。

東暫寺から数分、左奥に見える立派な門のお宅は「旧鈴木家本陣」(左)。本陣らしい風格が感じられる四脚門だ。仁連宿には脇本陣はなく鈴木家が名主・問屋も兼ねていた。

仁連宿を出ると「再び直線道路」(右)が待っている。次の諸川宿まではかれこれ30分ほどのテクテク旅。

諸川宿(もろかわじゅく) 宿駅の成立は元和5年(1619)。管理は主に幕府が行っていた。国道125号と交差する諸川交差点あたりから三和諸川郵便局あたりまでが旧宿場であった。
日光東往還の宿場の中では比較的多くの古民家が残っており旧街道の雰囲気がよく残っている。
旧宿場街に入って最初に向かった先は鎌倉時代の正中2年(1325)開山の向龍寺。山門を入った右手に整然と並んでいるのは「板碑(左)。正式には板石塔婆と呼ぶが室町時代前期に造られた古い物もある。

数分先の見世蔵は大正7年(1918)創業という「染谷商店」(右)。黒漆喰の重厚な造りに「下総国諸川 米穀 肥料 創業大正七年 染谷喜重商店」と書かれた金文字の看板が良く似合う。

染谷商店のすぐ先、左奥が中村家本陣跡。立派な長屋門の奥はごく普通の民家となり本陣の面影は少ない。 
その先の板塀に挟まれた奥に「旧脇本陣小林家の長屋門」(左)が見える。かつては小林藤兵衛商店として清酒・茂ろ川を醸造していた蔵元であったが今は廃業のようです。

旧脇本陣入口右側の古民家は「大橋醤油店旧店舗」(右)。黒漆喰の見世蔵に白壁の屋敷塀が良く似合う。

その対面が現在の「大橋醤油店」(左)。弘化2年(1845)創業というから170年間醤油を造り続けている老舗。創業当時からの蔵と杉の木桶で仕込まれた醤油の味は懐かしさたっぷりだとか。

すぐ先の「三和諸川郵便局」(右)の局舎は蔵造り。 元々の蔵を転用したのか蔵造り風に仕上げたのかは分からないが、なかなか良いではないか。
 

郵便局の先に長~い屋敷塀と屋敷門で囲まれた「お屋敷」(左)が見える。この辺りまでが諸川宿内だったようだが これまで見てきた日光東往還の宿場の中では昔の姿を最もよく残している。

ほどなく西仁連川の宝来橋を渡るがその手前に僅かだが旧道が残っている。旧道の傍らに「石碑」(右)が1基。残念ながら刻まれた文字がほとんど読み取れない。橋を渡ると結城市。この先も武井宿まで真っ直ぐな道路が続く。

武井宿 武井宿も諸川宿、仁連宿と同年代頃に成立したと考えられる。武井公民館辺りが宿場の中心だが往時の面影はほとんど見られない。また宿場内をほぼ真っすぐな道が貫いており枡形道がないため、宿場の入口、出口も分からない。 武井宿まで来ると結城市の市内巡回バスがあるが午前2本、午後2本と運行本数が極めて少ないので注意。

結城市に入って最初の集落名が「七五三場」(右)。 「しめば」 と読むのだがなんとも難しい。由来には諸説あるが鎌倉時代の地名「志目波」が転じて「志めば」になり「七五三場」が当て字されたと推測されている。
コメント:「しめ縄」語源説もある。

七五三場公民館前に立つのは「3基の石塔」(右)。右の延命地蔵は七五三場女人講中が建立したもの。中央は寛政6年(1794)建立の十九夜供養塔を平成11年(1999)に再建。左は顕彰碑のようだ。

坦々と続く街道をちょっと退屈しながら歩き しもふさの郷・百寿の家 前まで来たらちょっと寄り道を。

右側の林の間にある道に入り数分、結城百選に選ばれた景色は「水堀に囲まれた民家」(左)。中世、毛呂郷を領有していた称名寺から派遣された代官の館跡だとか。

街道に戻り20分ほど歩いて到着した場所は「大戦防交差点」(右)。なんとも物騒な地名だがその由来がなんとも滑稽。
その昔、この辺りを台仙坊と呼んでいた。明治中頃、人力車を業としていた某が栃木県小山の提灯屋に提灯を注文。引き受けた提灯屋は「だいせんぼう」と聞いて、なんと大戦防と書いて納入。以来、大戦防に。

交差点から10分ほど歩いた左側に「地蔵尊や十九夜塔」(左)などが鎮座しているが その右側奥は泰平寺跡。小さな御堂が建てられている。

その裏の墓地に戊辰戦争で戦死した「官軍兵士の墓」(右)がひっそりと。 時は明治元年(1868)、旧幕府軍と戦った新政府軍・館林藩の若い兵士2名の墓だ。

この墓地には武井宿で本陣を務めた「武井家の墓」(左)もある。こちらは立派。その右隣は問屋場を務めた斉藤家の墓。

街道に戻ると長いブロック塀で囲われたお宅があるが ここは「武井本陣跡」(右)。
武井宿は戊辰戦争で多くが戦火に遭い焼失したせいだろうか 往時の面影はほとんど無くなっている。

すぐ先にかなり大きな長屋門が見えるが ここは「旧問屋場斉藤家」(左)。

長屋門の前に「バス停ふじや前」があるが ここを通るバスは結城駅まで行く循環・江川Bルートで火曜・金曜・土曜のみ。一つ先のバス停まで行くと
江川Aルート・Bルートの両方停車するが曜日によって時刻表が変わるので要注意。
バス時刻表はこちらから 結城市ホームページ

この先結城駅まではさらに6km以上あるので今日はここまでとした。


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