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 ①南柏から山崎宿   ②山崎宿から東宝珠花   ③東宝珠花から関宿城  ④関宿台町通りから境宿  ⑤境車庫から武井宿 ⑥武井宿から小山工業団地前   ⑦小山工業団地前から日光街道合流点

②山崎宿から東宝珠花まで        街道地図
 
山崎宿を出て東武野田線の踏切を渡るとその先はどこまでも真っすぐな道が続く。この辺りは幕府放牧場の庄内牧の
中を通っていたのだが今でも野田市役所の辺りで野馬土手跡を見ることが出来る。
その先一里(約4km)程歩くと2番目の宿場、中里宿であるが往時の面影は残っていない。ところが思わぬ場所で「中里」
という文字を目にすることに。
中里宿を出て約1時間、東宝珠花(ほうじゅはな)に到着したら消滅した江戸川河川敷道の替わりに土手上の道をてくてくと。
菜の花の絨毯が素晴らしい。

 平成28年3月21日

常夜灯モニュメントの山崎宿碑がある交差点を渡り左へちょっと歩くと「秋葉神社」(左)の小さな祠がある。
傍らの由来碑には「・・・明治初年の神仏分離政策により秋葉神社になりました・・・」とあるが勧請年などの詳しい情報は記載されていない。こんな遠くまでにも秋葉大権現の信仰があったとは。

すぐ先の福寿院参道に並んでいる「石仏」(右)はかなり古い時代のもの。銘を見ると如意輪観音は延宝6年(1678)、六地蔵は安永5年(1776)、地蔵尊は享保3年(1718)

街道はこの先の三叉路で流山街道と別れ「右へ曲がっていく」(左)。 ちなみに野田市山崎の交差点で合流した下妻街道はここで日光東往還と別れ流山街道と同じ左へ。

日光東往還は鏡圓寺横を通り 東武野田線の踏切を渡るとその先は見通せる限り真っすぐ。
踏切りを渡った先、植え込みの中の石塔は「稲荷大明神と庚申塔」(右)。稲荷大明神は天保元年(1830)初午と銘があるが庚申塔は上半分が掛けているため「?政2年」だけ読める。寛政?文政?安政?どれかな。
 

真っすぐな道を7~8分歩くと街道際に多数の庚申塔や石塔が並んでいるがその奥は寛永16年(1630)に花井村の鎮守として建立された「花井神明神社」(左)。

50メートルほど先、右側の神社は菅原道真公を祀った菅原神社。
参道入り口に「座った姿の庚申塔」(右)が。座り地蔵は結構多く見るが 座り庚申は珍しい。造立は天明7年(1787)

この先の道も見渡す限り真っすぐ。 街道際に並んだ石仏・石塔を眺めながら歩こうではないか。
「森の遊園地」の大観覧車が見えると、
街道際の小さな墓地前に文久元年の
馬頭観音など3基の石塔がある。
「宮崎市民の森」の中を数分歩いた先の
香取神社境内にある庚申塔は天明元年、
寛政9年の造立。
野田警察署の手前、墓地内に如意輪観音や
十九夜塔等の石仏・石塔が。
同じく墓地の端に寛政9年、享保11年などの
庚申塔がある。

森の遊園地 辺りから街道右側に野馬土手が見え始めるが高さが僅か数十センチと低くなってしまったため見落としそう。
野田市役所前まで来るとかなり保存状態の良い「野馬土手」(左)が見られる。野馬土手は日光街道(日光東往還)に沿ってほぼ真っすぐに造られており、本来は道路の両側にあった。

程なく国道16号に接近したあと左に曲がって行く。その先の三叉路に「馬頭観音」(右)が。 左側の小さな馬頭観音は明治30年(1897)に造られたもの。右側は昭和59年(1984)の再建。

国道16号を横断しゴルフ場脇を進むと鳥居が見えたので入ってみると弁天池があり「野田吉春の弁財天」(左)が。

中里地区に入ったら「西岸寺」(右)に寄り道を。 文和元年(1352)の創建だがその後荒廃。長く無住だったが岌弁と弟子の呑竜が中興して寺号を西岸寺と改名。そういえば参道入り口に呑龍上人雷除名號なる石碑があったが。
元和9年(1623)、病床にあった呑龍上人は遺言の通り、雷鳴の轟く中、68歳の生涯を閉じられた。

ほどなく中里宿に入るが往時の面影は見られない。ところが思わぬ所に中里宿が。
国道16号の陸橋を抜けた先の満蔵寺境内にあった「庚申塔」(左)に中里上宿と刻まれていたのです。

満蔵寺を出て数分歩いた先の道路際にあった「庚申塔」(右)にも側面に中里上宿と刻まれている。 中里宿の存在を示すものはこの2点だけ。

庚申塔の後方に鳥居が見えるので行ってみると鳥居の扁額に愛宕神社とある。参道を進むと「神社が2社」(左)。
右手が愛宕神社で左が須賀神社であった。

街道はこの脇を通っていたが この先は工場の敷地となって消滅。庚申塔前まで戻ったらちょっと寄り道を。
敷島製パンの工場脇を進み三社大権現神社にお参りを、と思ったら神社が無い  「再建中」(右)でした。
境内には浅間大神が祀られた富士塚もある。

僅かな区間だけ残った旧道に入ると「赤く塗られた祠」(左)が。中には大日如来と石塔が納められている。石塔に文政2年(1819)卯年と刻まれ「大日・・・・」と続くが詳しいことは分からない。

その先の三叉路の林の中に「庚申塔と青面金剛」(右)が。庚申塔は明和4年(1767)の建立で右側面に刻まれた文字は「右ハせきやとミち」。青面金剛は明治20年(1887)の建立で これも道標を兼ねている。

旧道は三叉路を右に曲がるのだが その先はゴルフ場の中へ消えていくのでしばらくは県道17号を歩く事に。

県道を10分ほど歩くとゴルフ場の外れに左へ入る細い道があるが、ここにひっそりと立つのは「青面金剛」(左)。
道標を兼ねており側面に刻まれた文字は「右せきやと 下総國葛飾郡木間」「左****」

その先の墓地入口に「庚申塔・子待塔・十九夜塔」(右)が並んでいるが子待塔は珍しい。甲子(きのえね)の夜、大黒天を祀って講中で甲子待ちの供養を行うが この時のために造立したものだろう。

江戸川河川敷の東宝珠花までは神社や地蔵堂、石仏などをみながらテクテクと。

ほどなく到着した場所は地元の人達に「山王様」と呼ばれ親しまれている「日枝神社」(左)。十三世将棋名人の関根金次郎が幼い頃に遊んだ場所。
参道左右の「狛犬」(右)は関根名人が寄進したもの。台座部分にその銘が見える。

境内右手の小山は富士塚。

道路を挟んだ反対側の墓地内に「関根金次郎の墓」(左)があるのだが、ここには将棋の駒を模った記念碑が据えられている。左側の石塔が関根名人の墓石。

墓地の外に多数の庚申塔や馬頭観音、地蔵尊等が鎮座しているが道路工事などでここに集められたものではないだろうか。

県道は神社の前を真っ直ぐ進むが往時の旧道は左に曲がり江戸川の河川敷を通っていた。今は堤防が造られ旧道は消滅。

旧道に入り江戸川の土手まで来ると堤防は「菜の花の絨毯」(左)。良い時期に来たものだ。彼方に見える橋は昭和33年(1958)に開通した東宝珠橋。

この辺りの地名は 『東宝珠花(ひがしほうしゅはな)』 という素敵な名前。その昔、江戸川を上ってきた帆かけ舟が荷降ろしの合間に帆を干したことから「帆を干す」が訛って「ほうしゅ」となり、地名登録の際、響きの良い「宝珠」という漢字を使ったようだ。

しばらくは土手上の遊歩道を散歩気分で。


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