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鎌倉街道上道

 (1)鶴岡八幡宮から寺分   (2)寺分から下飯田  (3)下飯田から上瀬谷  (4)上瀬谷から本町田  (5)本町田から関戸  (6)関戸から西国分寺  (7)西国分寺から所沢   (8)所沢から狭山  (9)狭山から西大家 
     (10)西大家から鳩山町  (11)鳩山町から嵐山町  (12)嵐山町から能増  (13)能増から小前田  (14)小前田から児玉  (15)児玉から神流川   (16)神流川から西山名駅  (17)西山名駅から高崎城址

⑤本町田から関戸・熊野神社まで 街道地図

鎌倉街道上道の旅、5回目は本町田の菅原神社前から。

菅原神社交差点を右へ曲がり300mほど歩いたら左へ曲がって行く。 この先しばらくは住宅地の中の細い道。
往時の面影は無いがなんとなく旧道という雰囲気が。
40分ほど歩いたら七国山に向かう山中の土道に入るが「鎌倉古道」と案内表示のある雑木林の中の道は往時を
想像させてくれる。  その先の旧道ルートは不明な部分が多いが小野路一里塚を通り小野路宿まで来ると往時の
旅籠・角屋が復元されている。
小野路宿を出ると再び雑木林の中の土道。ここを抜けると一転、多摩ニュータウンの中の整備された道。
しばらくは古道を忘れて歩くしかないが関戸の熊野神社に鎌倉時代が残っていた。

平成29年9月27日

菅原神社前から右に曲がり旧道に入って数分、階段参道の奥は永禄10年(1567)開創という「養運寺」(左)。一説には文永年間(1264~74)には天台宗の寺院として存在してたとも。

その先の「宏善寺」(右)は創建年代不詳だが文永8年(1271)に日蓮が佐渡へ配流される途中、井手の沢の小庵で休憩されたが、その際 宏善寺の号を授けたのが始まりとされている。
いずれの寺院も今は住宅地の中の寺だが手入れの行き届いた境内は住宅地の中とは思えない静かな佇まい。

宏善寺を出て恩田川沿いを北上すると後田自治会館脇の小さな祠にひっそりと納まっているのは「道祖神」(左)。
その先の「せせらぎ散歩道」を通って今井谷戸交差点まで来るとバス停際に「石仏・石塔」(右)が無造作に並んでいる。 地神塔は弘化3年(1846)の建立だが昭和15年(1940)建立という馬頭観音もある。

街道は交差点を横断して再び住宅地の中の細い道に入って行く。
 

町田ダリア園の前を通って数分、右側の「七国山に向かう道」(左)へ入り雑木林の中の古の土道に入った、と思ったらすぐに舗装道路に合流。そこにあったのは「鎌倉井戸」(右)。この井戸は新田義貞が鎌倉攻めの軍を進める途中、ここに井戸を掘り軍馬に与えたと語り継がれている。今は埋まっているが地下1.5mには当時の円筒形の井戸が原型のまま保存されている。

すぐ隣の石碑は七国山鎌倉街道の碑

鎌倉井戸のすぐ先に舗装道路から分かれて左へ下る土道があるが この道が「古の鎌倉街道」(左)。
「鎌倉街道上ノ道」(左)の案内表示があるのですぐ分かる。


雑木林の中の土道を5~6分歩くと三叉路となるが、ここにも案内表示があるので左へ入って行く。

往時の雰囲気を楽しみながら雑木林の中の道を下って行くと突然 住宅地の中の舗装された道路へ。一気に現代に引き戻された。
この先の旧道は消滅状態。ルートもはっきりしない。

とりあえず住宅地の中を歩いていると神社らしき建物が。地図を見ると「稲荷神社」(左)となっているが鳥居も無ければお狐様もいない。もちろん説明板もない。ちょっと不思議な神社だ。

ほどなく「新鎧橋」(右)を渡るが すぐ先に鎧橋がある。蛇行していた鶴見川を真っ直ぐに付け替えた結果このようなことに。鎧という名前には次のような云われが。新田義貞軍と幕府軍による関戸の戦いで犠牲になった兵士の屍が鶴見川を折り重なって流れたことから 鎧ケ淵 と呼ばれたのだとか。

鎧橋を渡った後、都道57号を右折し直ぐに左折して「野津田公園に向かう山道」(左)を上って行くのだが これが結構きつい。上りきって野津田高校の横に出たらその先の公園脇を通って行く。


公園に沿って右へ曲がりしばらく歩くと現存の「小野路一里塚」(右)の前に出る。元和3年(1671)、徳川家康の遺骨を久能山から日光東照宮に移す際に街道整備が行われ その時に小野路一里塚が造られたという。

野津田公園への取り付け道路を横断し さらに旧道を進むと暑い暑いと言っていたがいつの間にか「秋ですね~」(左)。

白道寺の前を通り坂道を下ってくると「馬頭観音」(右)が見落としそうな場所に祀られていた。

旧道はその先で都道156号に合流。

都道に合流したすぐ先の「小野神社」(左)は境内に掲示された由緒に「小野篁の七代孫小野孝秦が武蔵の国司として天禄年間(972)頃赴任し小野路の地に小野篁を祀ったことに由来する」 とある。
 小野篁は平安時代前期の人物で菅原道真の先輩にあたる。篁の孫が小野道風。

小野路は鎌倉と国府の置かれた府中に通ずる要衝で古くから宿駅として賑わっていた。

小野神社の隣が旧旅籠角屋があった場所で現在は「小野路里山交流館」(右)として一般開放されている。旅籠時代の建物は関東大震災で全壊。現在の建物はその後に建てられたものを修復。

里山交流館に沿って左に曲がると すぐ先に黒板塀の屋敷があるが ここは小野路村の「旧寄場名主・小島家」(左)。
新鮮組の近藤勇や土方歳三らは京都へ行く前に名主・小島鹿之助のもとに剣術の出稽古にたびたび訪れていた。 現在は小島資料館となっている。  コメント:開館は第一・第三の日曜日のみ。

その先のバス停中宿の辺りは「高札場跡」(右)。説明板には小野路の歴史と当時の宿場図が記されている。甲州街道と東海道を結ぶ脇往還として大変賑わっていたという。

数分歩いた先に「関屋の切り通し→」(左)の表示があるので ここを右に曲がると再び「古の鎌倉街道」に入れる。この先は三叉路が多いので注意。2度目の三叉路手前に「一本杉公園→」の表示があるがここは右の道に入る。次の三叉路に「地蔵祠」(右)があるが ここも右へ入る。さらに数分歩くと三叉路の向うに人家が見えるが ここは左に入る。

この先は 土道の旧道 をどこまでも道なりに下り都道156号に合流。合流先に見えたのは恵泉女子学園の体育館。

恵泉女子学園の外柵に沿って緩い下り坂を下ると「鎌倉古道跡」(左)と記された標柱が歩道の端に建てられている。
説明板に「この近くに見える山道は貝取団地の尾根へとつながり・・」と記されているが その旧道はこの辺りまで。

すぐ先の妙櫻寺前を通って「恵泉女学園大学前交差点」(右)まで来るとその先は多摩ニュウータウンの大規模宅地開発で旧鎌倉街道は壊滅状態。

交差点を渡って数分歩いたら右へ曲りしばらく先で現・鎌倉街道に合流。途中から平行する「瓜生せせらぎ散歩道」(左)へ。散歩道の植込みの中にあったのは「瓜生一里塚跡碑」(右)。

小野路一里塚の説明板に「多摩市貝取にあった塚は現在残っていない」と記されていたが、この説明板には「ここから西南70メートルほど離れた鎌倉街道を挟んだ両側に塚が存在していた」とあるので現・鎌倉街道のバス停付近に塚があったと推察。

旧鎌倉街道がこの辺りを通っていたことは分かったが詳細ルートは不明。ということで現鎌倉街道を北上して乞田川を渡り、
乞田交差点まで来たら右側の脇道へ入って行く。

数分歩いた先にガソリンスタンドがあるが その手前の右へ下る坂を「ころがっと坂」(左)と呼んでいる。
その昔、この先の霞ノ関に関所があったころ、捕えられた罪人を坂下の処刑場まで連れて行くとき この坂まで来ると先へ進まず ころがすようにして引いていったことからこのような名になったという。

旧道は坂と反対側の細い道に入って行く。数分先の多摩市役所入口に「古市場標柱」(右)が建てられているが、ここは小田原北条氏のころ六斎市が開かれていた場所。

多摩市役所第二庁舎前を進み三叉路まで来ると左手に石碑が2基。その奥の林の中に「小さな祠」(左)がある。
はて、この祠は? 石碑に次のように記されている。「・・・古老ノ言ニ依レバ霞ケ関ニ関係アル祠トモ言フ・・・」 この先の霞ノ関に関係あるようだが詳しいことは分からない。

三叉路まで戻るとその先は下り坂。この坂を「沓切坂」(右)という。新田義貞が分倍河原の戦いの時に この坂で馬の沓が切れたから、とも、この坂で馬の沓を取り裸馬を飛ばしたからとも云われている。

沓切坂を下る途中の左手階段上の薄暗い中に見えたのは正徳2年(1712)庚申塔。 坂を下るとバス通りに合流。

5分ほど歩くと熊野神社前に出るが ここは「霞ノ関南木戸跡」(左)。鎌倉時代の建歴3年(1213)、鎌倉街道に設けられた関所の木戸があった場所で「関戸」という地名が残されている。

参道に並行して木柵が設けられていたそうで、発掘調査の結果45センチ間隔で丸柱が建てられていたという。右の写真はその一部を復元したもの。

参道入り口右手の祠の中に地蔵尊が鎮座しているが これは廃寺となった別当寺の熊慶寺縁の地蔵尊で寛政8年(1796)の銘がある。

本日の古道の旅はここまで。次回は多摩川を渡って府中から武蔵国分寺跡あたりまで歩く予定。

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