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①鎌倉から金沢文庫
②金沢文庫から保土ヶ谷
③保土ヶ谷から師岡熊野神社
④師岡熊野神社から丸子の渡
⑤丸子の渡から大井
⑥大井から赤羽橋
⑦赤羽橋から浅草
⑧浅草から白髭橋
⑨白髭橋から国府台
①鎌倉から金沢文庫まで
街道地図
これから鎌倉街道下道
(しもつみち)
を千葉県・市川の国府台まで歩くのだが、まずは
「修復が完了したばかりの段蔓」
(左)を
歩いて鶴岡八幡宮へ。傷みの激しかった段蔓だったが、すっきりと、さわやかに変身。今後、年を経るごとに風情ある景色に
変わっていくことだろう。
下道の起点は厳密に決まっているわけではないが鶴岡八幡宮参道を横切る流鏑馬道辺りと云われている。
旅 のスタートは源平池の旗上弁財天社に旅の安全祈願をしてから流鏑馬道に入り 下道へ。
今回の旅では往時の遺構などをたどりながら朝夷奈
(あさいな)
切通しを通って金沢八景に入り金沢文庫の称名寺まで
歩く事にした。
平成28年6月14日
源平池右側の源氏池に浮かぶ島に建てられた
「旗上弁財天社」
(左)は源頼朝旗挙げの際、北条政子が建立したと伝えられている。この神社には旅の安全祈願は含まれていないが、ちょっとばかり無理を言って千葉までの無事を祈っておこう。
参道に戻ったら途中から右に曲がって
「流鏑馬道」
(右)に入り旅のスタートだ。文治3年
(1187)
、頼朝が鶴岡八幡宮で行った放生会で流鏑馬の奉納が行われたが、そのために造営されたのが流鏑馬馬場であった。
流鏑馬道の東鳥居を出た所に据えられている石碑は
「畠山重忠邸跡碑」
(左)。畠山重忠は源頼朝に仕えた武将だが頼朝の死後、北条時政に騙され武蔵国二俣川で討ち死に。
碑には頼朝の二女三播が病に伏せた時、京都から呼び寄せた名医・丹波時長が滞在したこと・・・などが刻まれている。
小学校前を進み突き当たったら右へ曲がると県道へ合流するが、そこにあったのは大小2基の
「筋替橋碑」
(右)。 鎌倉十橋の一つで道路に対し斜めの川に架けられた橋であったので筋違橋と呼ばれた。
この先しばらくは県道204号
(金沢街道)
を歩くのだが あちらこちら寄り道しながら十二所まで。
筋替橋碑から4~5分、左へ入った先の十字路際にある石碑は
「大倉幕府跡碑」
(左)。治承4年
(1180)
、鎌倉入りを果たした頼朝は大倉の地に御所を構え政治を行ったことから大倉幕府と呼ばれた。
さらに先へ進み突き当りの階段を上った所は
「源頼朝の墓所」
(右)。
頼朝は建久9年
(1198)
、相模川橋視察の帰りに落馬し それが原因で翌年53歳で死去。亡骸は法華堂に葬られたが その法華堂は後に廃絶。現在建っている塔は後年、島津藩主・島津重豪が整備したもの。
コメント:頼朝の落馬に関連する「弁慶塚」が東海道・藤沢にある。
東海道藤沢宿
の最後に記載しました。
街道に戻ると すぐ先の三叉路
(岐れ路)
際に
「庚申供養塔と大師道道標」
(左)の石塔が2本。庚申供養塔には延享2年
(1740)
とある。「右 大師道」と刻まれた道標は覚園寺へのものだろう。
その先に
「関取場跡碑」
(右)が建てられている。天文17年
(1548)
、北条氏は此処に関を設け関銭
(通行税)
を取っていたが、その税金は荏柄天神社の修復費用に当てていたのだという。
関取場跡碑のすぐ先を右に入り大御堂橋を渡った先の石碑は
「文覚上人屋敷跡碑」
(左)。北面の武士であった遠藤盛遠が故あって出家。源頼朝と出会い伊豆・韮山で平家打倒の挙兵を薦めた人物が文覚上人。
街道に戻らず住宅地の間の狭い道を5分ほど歩いた所にあったのは
「勝長寿院跡碑」
(右)。
源頼朝が建立した3大寺院の一つ 勝長寿院は父・源義朝の菩提を弔うために建立した大寺院で大御堂と呼ばれていた。残念ながら何回か火災で焼失しており廃寺となってしまった。
街道に戻り数分歩くと小さな橋を渡るがこの橋を
歌の橋
という。
傍らの
「歌の橋碑」
(左)によると建保元年
(1213)
、
謀反の罪により誅されんとした渋川兼守の歌十首に感激した将軍 源実朝が兼守を許し そのお礼に兼守がこの橋を架けたことからこの名が付いた。
その先4~5分、階段を上がった所の
「杉本寺」
(右)は鎌倉幕府が成立する五百年も前の奈良時代に行基が開いたとされる鎌倉最古の寺。茅葺の本堂がいいね~
杉本寺から街道に戻ったら さらに数分歩いて報国寺に寄り道を。
報国寺は足利貞氏の父である足利家時の開基であるが上杉重兼もかかわっており、足利、上杉両氏の菩提寺でもあった。
竹の寺 とも呼ばれるほど
「竹林」
(左)が有名だが竹林の奥に見える休耕庵で竹林を眺めながら頂く抹茶は格別。
報国寺を出たら谷戸道を少し奥まで歩くと 国登録有形文化財 の
「旧華頂宮
(かちょうのみや)
邸」
(左)が見られる。ハーフティンバー様式の洋風住宅は昭和4年
(1929)
に華頂博信侯爵邸として建てられたもの。
街道に戻り数分歩いたら
「浄妙寺」
(左)に寄り道を。
源頼朝の重臣・足利義兼が建立した鎌倉五山第五位の由緒ある禅宗の寺で、室町時代は境内に二十三の塔頭を持つ大寺院。
本堂裏手の墓地内に室町幕府初代将軍足利尊氏の父である
「足利貞氏の墓」
(右)がある。
街道から一歩入った場所に見える石碑は
「足利公方邸跡碑」
(左)。
源頼朝が幕府を開いたとき、北条政子の妹を妻とした足利義康が屋敷を構えた場所。その後200年以上に渡ってこの地に住んでいたが足利成政が上杉憲忠との不和が原因で下総に移ってしまった。
街道の左奥に見える茅葺の建物は
「明王院」
(右)。 鎌倉幕府の四代将軍・藤原頼経が祈願所として建立した寺院で五大明王が祀られていることから五大堂とも呼ばれていた。
明石橋を渡って数分歩いたら光触寺
(こうそくじ)
に寄り道を。本堂前の小さな祠に鎮座しているのは
「塩嘗地蔵」
(左)。
六浦の塩売りが朝夷奈切通を通って鎌倉に来るたびにお地蔵様に塩をお供えし、帰りに見てみると塩が無くなっていたという。きっとお地蔵様が嘗めてしまったのだろう。
街道左手の山裾にひっそり佇むのは
「十二所
(じゅうにそ)
神社」
(右)。
元々は光触寺境内にあった熊野十二所権現。天保九年
(1383)
に現在の場所に移されている。
街道まで戻ると道路際にちょっと小柄な
「お地蔵さん」
(左)が。江戸時代から旅人を見守ってきたのだろう。
ここでバス通りと別れ太刀洗川に沿って朝夷奈切通へ向かって行く。
10分ほど歩くと太刀洗川の向うに竹筒から水が流れ出ている場所があるが、ここは梶原景時が上総介広常を討った後 刀の血を洗い流したと伝わる
「梶原景時太刀洗水」
(右)。
コメント:案内板があるのだが、夏場は雑草に隠れて見えないかもしれない。
太刀洗水のすぐ先から
「朝夷奈切通」
(左)に入るのだが その入口にある滝を
「三郎の滝」
(右)という。
傍らの
朝夷奈切通碑
に
「鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉ヨリ六浦へ通ズル要街ニ當リ大切通小切通ノ二ツアリ、土俗ニ朝夷奈三郎義秀一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ其名アリト傳ヘラレルモ・・・・・・・」
とある。
その朝夷奈三郎に因み 「三郎の滝」 と。
切通しの上り坂を歩いていると石仏、石塔が幾つか見られる。
お地蔵様の優しいお顔に、多くの旅人が
癒されたことだろう。
ちょっと見落としそうに小さい石塔は
供養塔だろうか。
供養塔がもう一つ。安永九年(1780)と
刻まれている。
10分ほど歩いた頂上近く。左手に薬壺を
乗せているので薬師如来だろう。
磨崖仏のすぐ先が頂上でここから横浜市。すぐに熊野神社への分かれ道があり5分ほど歩くと神社。
「熊野神社」
(左)は源頼朝が鎌倉に幕府を開いたとき鬼門に当たる北東方向の朝夷奈山上に熊野三社権現を勧請したのが始まりとされている。その後、切通開削の指揮をした北条泰時が社殿を建立。
何回か再建や修築が行われているが
「現在の本殿」
(左)は氏子の寄進により昭和53年
(1978)
に再建されたもので
「拝殿」
(右)も平成元年
(1989)
に再建。
分かれ道まで戻るとその先は下り坂。ほどなく両側が切り立つ崖の
「まさに切通し」
(左)。この道は昭和31年
(1956)
に県道204号が開通するまで東京湾側から鎌倉に入るための重要な道路であった。
坂道を下って来ると高速道路の橋げたが目の前を横切るのがなんとも無粋。その下を通り過ぎると
「多数の石仏」
(右)が出迎えてくれる。間もなく切通しも終わりだ。
石仏群の先に
「朝夷奈切通碑」
(左)が建てられており、その隣は説明碑。
「鎌倉幕府は仁治2年
(1240)
六浦津との重要交通路として路改修を議定、翌年4月から工事にかかりました。・・鎌倉七口の中、最も高く険阻な道です」とある。
朝夷奈切通しを出た街道はほどなく環状4号を横断するが その先に僅かな区間だが
「旧道」
(右)が残っている。なんとなく鄙びた雰囲気がいいんだな~。
環状4号をしばらく歩いていると
「鼻欠地蔵」
(左)の説明板が。風化して鼻が欠け落ちているためこのように呼ばれました。とあるが今は僅かに輪郭が残るのみ。いつ頃造られたのかは定かでない。
六浦2号橋の手前を右に入って行く道が旧道だが、ちょっと寄り道を。
光傳寺で見たのは
「樹齢500年のビャクシン」
(右)。青々と葉が茂っており今も元気旺盛。間近でみる
樹齢500年の幹
は節くれだって凄い迫力。風雪500年の歴史が迫ってくる。
街道をもう少し歩いたら
「上行寺」
(左)にも寄り道を。
元は真言宗の寺であったが建長6年
(1254)
に日蓮が六浦の浜に到着した縁から日蓮宗に改修。
その日蓮の船が到着したと伝わる場所が山門を入った右側に
「日蓮舟繋ぎの松跡」
(右)として残っている。かつてはここまで海だったということだが今は平潟湾の入江が10分ほど先まで後退してしまった。
街道はほどなく国道16号に合流。数分歩くと
「泥牛庵」
(左)という なんとも意味深なお寺が。 因みに山号は吼月山。
調べると、臨済宗円覚寺派の禅刹で鎌倉時代末期に円覚寺11世が隠居所として創建したのが始まりとか。禅語の「泥牛吼月」に由来するのだそうで「泥で作った牛が月に吼えている」とでもいうことか。
階段を上がった山門脇に石塔が何基かあるが
「右側2基」
(右)がなんとも。石塔は文字がほとんど読み取れない。庚申塔は溶けに溶けて幽霊の線描きのように。 何故こうなった。
国道を横断して向かった先は
「金龍院」
(左)。南北朝時代、鎌倉・建長寺の方崖元圭禅師が開山した古刹。この寺にあった硯から龍が昇天したので 昇天山金龍院 と名付けられたという。裏山の
「九覧亭」
(右)は江戸時代後期に設けられた金沢八景の展望台で八景に富士山を加えて
(能見堂との説もある)
九覧亭。
金沢八景巡りの旅人が必ず立ち寄った名所。 昭和初期までは茶店もあったという。今はかろうじて
木の間越しに平潟湾
が見える。
街道はこの先で国道から離れ旧道に入って行くが一部は消滅。
金沢八景駅を過ぎた先の
「瀬戸神社」
(左)は治承4年
(1180)
、鎌倉に幕府を開いた源頼朝が伊豆三島明神の分霊を勧請して創建。北条氏や関東官領足利氏の崇敬を受け徳川家康も参拝したという。
権現造りの現社殿は寛政12年
(1800)
の建立。
国道16号を挟んだ対面の海に突き出た島は琵琶島と呼ばれ小さな神社がある。入り口の大きな石は
「福石」
(右)。
源頼朝が瀬戸神社参拝の折り、禊
(みそぎ)
をした時に衣服を掛けた石なのだそうだ
琵琶島入口の鳥居をくぐるとその先は松並木の参道。
「松並木越しの平潟湾」
(左)が何とも言えない良い景色だ。
参道の突き当りが
「琵琶島神社」
(右)。 源頼朝が伊豆の三島明神を勧請して瀬戸神社を創建した際、夫人の北条政子が琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して創建したと言い伝えられている。
国道に戻ったら100mほど先を右へ曲り
「瀬戸橋」
(左)を渡って行く。
かつては狭い海峡で海水が渦巻く難所、舟で渡るのは容易ではなかった。 嘉元3年
(1305)
、北条氏は海峡に島を築き二つの橋を架けたのが瀬戸橋の最初であった。
橋を渡たら上流へ100mほどの
「姫小島跡」
(右)に寄り道を。
解説板に
「その昔 照手姫がこの島にて松葉いぶしの難に遭いたるを 土地の人哀れみ 呼んで 姫小島という 」
とある。
街道に戻るとその先にあったのは
「明治憲法起草の地 説明碑」
(左)。ここは料亭東屋があった場所で明治20年
(1887)
、伊藤博文、伊東巳代治、金子堅太郎らが明治憲法制定のため草案を起草したところ。
100mほど先のポケットパークに
「憲法草創之處碑」
(右)が据えられているが この碑は昭和10年
(1935)
に東屋庭内に建立されたもの。東屋廃業に伴い現在地へ移設。
ポケットパークに沿って左に曲がり数分歩くと突き当りに鎮座しているのは
「洲崎神社」
(左)。
元は海に長く突き出た長浜千軒と言われた場所にあったが津波で流され移転。その移転先がなんと道路の真ん中だったが、明治37年
(1904)
に現在地へ再移転。社殿は天保9年
(1838)
に再建されたもの。
隣の龍華寺は源頼朝が瀬戸神社を建立した際、別当寺として建てた浄願寺が始まり。山門の先に茅葺屋根の
「鐘楼」
(右)が目に入るが ここの梵鐘は室町時代の天文10年
(1541)
に鋳造されたもの。
龍華寺を出て7~8分、
「八幡神社」
(左)の前で分かれる二股道の左が鎌倉街道下道で右手は名勝・称名寺への参道。
称名寺は鎌倉時代の半ば、北条実時が建てた持仏堂が起源とされ金沢北条一門の菩提寺。 国指定史跡の浄土庭園をはじめとして見どころ多数の寺院。通り過ぎる分けにはいかない。
右の道に入って7~8分、緩い坂道を上り切ると明和8年
(1771)
に建立された
「称名寺赤門」
(右)の前。
赤門をくぐり桜並木の下を進むと茅葺の鄙びた門があるが、ここは称名寺塔頭の
「光明院表門」
(左)。寛文5年
(1665)
の建立で横浜市内最古の建造物。
(コメント:移築建造物を除く)
その先に文政元年
(1818)
建立の
「称名寺仁王門」
(右)が見える。左右の仁王像
(金剛力士像)
は鎌倉時代末期の元享3年
(1323)
造像で高さ4mという大きさは関東地方では最大級。
仁王門脇の通用門を入ると目の前に見えたのは
「反り橋」
(左)。
現在の称名寺庭園は昭和56年
(1981)
に整備されたもので阿字ケ池に架かる反り橋・平橋を中心に
「浄土庭園」
(右)が広がる。
反り橋を渡り その先の平橋を歩きながらゆったりした気分で阿字ケ池を眺めると、それこそ浄土の世界に入ってしまったような。
平橋を渡った正面が元和元年
(1861)
に再建された
「金堂」
(左)で、本尊は建治2年
(1276)
の銘がある国の重要文化財に指定されている弥勒菩薩立像。
隣の
「釈迦堂」
(右)は文久2年
(1862)
の建立で徳治3年
(1308)
銘の釈迦如来立像が安置されている。こちらも国指定の重要文化財。
この他にも見どころが多く街道歩きの寄り道ではもったいない。
鎌倉街道下道の旅、初回はここまで。 赤門を出たら右に曲りショートカットして街道へ戻りました。
次の街道
金沢文庫から保土ヶ谷
まで
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