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鎌倉街道下道の旅 6回目は大井蔵王権現神社前から。
この先はJRの車両基地などで旧道が全く消滅状態。 品川区役所前、車両基地脇、鉄道横断歩道橋などを
通って山手通りの居木橋を渡ると旧道が復活。橋を渡ったら御殿山通りの急坂を上り、大使館や原美術館が
ある閑静な道をしばらく歩くと旧中原街道に合流。見所の多い高輪台を過ぎたら聖坂を下って国道1号に合流し
赤羽橋を渡っていく。
高輪台の承教寺に なんとも奇妙な 『件(くだん)』 なる妖怪がいます。 |
回り道をして山手通りに合流したら右へ曲がり目黒川に架かる「居木(いるぎ)橋」(左)を渡ると旧道に戻れる。
山手通りは元々は室町時代から品川宿と多摩方面をつなぐ主要街道であった。その頃、この川辺に風が吹くとゆらゆら揺れる松の大木があり ゆるぎの松 と呼ばれていたが
そのうち「いるぎの松(居木の松)」と呼ばれるようになり その傍に架かる橋を居木橋と呼んだという。
居木橋を渡り山手通りを横断すると「御殿山通り」(右)。ここから旧道が復活。上り坂の途中にある標柱は御殿山の坂。 |
坂を上りきったあたりは江戸時代に将軍が鷹狩の際に休んだ品川御殿があった場所。今は原美術館や大使館が点在している静かな住宅街の中を「旧道」(左)が通っている。
旧道が消滅した部分もあるが かれこれ20分ほど歩きプリンスホテル新高輪に突き当たったら左折。柘榴坂を上ってすぐに右へ曲がると ほどなく「旧中原街道」(右)に合流。 |
ここからしばらくは旧中原街道と重なっているため かつて歩いた道を逆方向から歩くことになる。 |
合流して数分歩いた右側の光福寺に摩訶不思議なお地蔵さんが。その名を「幽霊地蔵」(左)。説明板が無いためいつ頃建立されたのか分からないが幽霊のように細くなってしまった不思議なお地蔵さんだ。
その先4~5分の「高野山東京別院」(右)は慶長年間に高野山学僧の在番所として浅草の日輪寺に寄留し開創。延宝元年(1673)、現在地に高野山江戸在番所高野寺として建立。
不動堂では毎日、護摩祈祷が行われ願意が書かれた護摩木を焚きながら所願成就をお祈りしてくれる。 |
交差点際に灯台 ? ではなく火の見櫓。 この建物は「高輪消防署二本榎出張所」(左)で昭和8年(1938)の落成。 近代建築の遺産として東京都選定歴史的建造物に指定。
数分先の黄梅院にあったのは「高輪銭洗不動」(右)。宝珠から湧き出る浄水でお金を洗うと金運上昇間違いないのだそうだ。ところで左側の石像はどう見てもお不動様ではなく地蔵尊なのだが。 |
すぐ先の承教寺入口の石碑は「二本榎の碑」(左)。江戸時代 この辺りに榎の大木が2本あったことから二本榎という地名となった。だが、今は高輪何丁目という無粋な地名に。
隣に「件(くだん)」(右)なるなんとも奇妙な動物が。人間の顔を持った牛。つまり 人+牛=件。
人の言葉を話す 件 は作物の豊凶や疫病などを予言するという。江戸時代には目撃者がいたんだって。 |
承教寺本堂前の小さな石塔は江戸中期の絵師「英一蝶の墓」(左)。
元禄11年(1698)、将軍綱吉を風刺した絵を描いたとして三宅島に配流。12年後、大赦により江戸に戻ったが赦免の報を聞いたとき蝶が花に戯れる様を見て 一蝶 と号したという。
数分歩いた先、高輪一丁目アパートの間を入ると「大石良雄 外16人忠烈の跡」(右)がある。ここは熊本藩細川家の下屋敷があった場所。細川家御預けとなった大石蔵助良雄ら17名は元禄16年(1703)、細川邸大書院の前庭で切腹。 |
街道に戻り数分、鬱蒼とした森に囲まれた一角は高松宮邸跡。喜久子妃殿下が亡くなられた後は住む人も無くひっそりとしている。 |
その先の交差点から右へ下る坂を「伊皿子(いさらご)坂」(左)と呼んでいる。中国人の伊皿子(いんべいす)が住んでいたからとも、大仏(おさらぎ)が訛って「いさらご」になったとも伝わるが確かなことは分からない。
交差点を左に下る坂は魚籃坂と呼ぶが これは坂の途中に「魚籃寺」(右)があるから。
御本尊の魚籃観音菩薩は左手に魚籠を持ち右手で衣装を少し持ち上げている美しい乙女の観音様。年に一度の御開帳という秘仏なので残念ながら見ることはできなかった。 |
朝顔に つるべ取られて もらい水 加賀千代女 なんと、その井戸が今も残されているのです。薬王寺本堂の裏手、墓地の一角に「朝顔の井戸」(左)がありました。
街道に戻り次の幽霊坂を下ると玉鳳寺。山門脇の地蔵堂に「お化粧延命地蔵」(右)が鎮座しており次のような伝説が。
橋の袂に放置されているお地蔵さんを発見した寺の和尚さんが、壊れた部分を白粉で修復するとたちまち美しいお地蔵さんに。そして和尚さんの顔の痣も治ったという。これを聞いた近所の人達が美しくなりたいと連日参拝に訪れたのだとか。 |
幽霊坂途中の實相寺に会津松平家の墓地がある。会津藩祖保科正之(のち松平姓)が江戸の菩提寺として定めた寺で歴代藩主の婦人や子女の墓が多い。ちょっと荒れた感じが残念。 |
墓石の中で目立つのが「聖光院の墓」(左)。正之の継室お万の方の墓だが恐ろしい毒殺事件を起こした人物で正之が家訓に 「婦人の言は一切聞くべからず」 と付け加えたほどの悪女であった。
街道に戻ったら亀塚公園に寄り道を。
園内の「亀塚」(右)は古墳といわれているが更級日記には竹芝寺の伝説地との記述も。ここは上野国沼田城主土岐家の下屋敷であった。亀が石になったという伝説に興味をもった土岐頼熙(よりおき)が寛延3年(1750)に亀塚の頂上に亀山碑を建立。
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亀塚公園を出ると下り坂となるが この坂は「聖坂」(左)と呼ばれていた。古代から中世の通行路で商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開きその宿所もあったという。
坂の途中に亀塚稲荷神社があるが その傍らに「板碑」(右)が3基。文永3年(1266)・正和2年(1313)・延文6年(1361)に造立されたもので特に文永3年の板碑は港区で最古のもの。 |
この先は旧道が消滅状態なので道なりに下って左に曲がり国道1号に合流。 |
国道に合流して数分、階段上の朱鮮やかな神社は「春日神社」(左)。天徳2年(958)、武蔵国国司藤原政房が任国の際、奈良春日大社の御神霊を目黒区三田に勧請。天文年間に当地へ遷座。
江戸府内でただ一カ所の春日神社だったことから徳川将軍の崇敬篤く、諸大名も江戸城登城の途中に参詣したのだとか。
赤羽橋南交差点を渡ると「旧赤羽橋親柱」(右)が保存展示されている。現在の赤羽橋は味もそっけもない橋だが街燈が乗った石積みの旧親柱にはなんとも言えない情緒あり。 |
この先の赤羽橋を渡ったら国道1号と別れ右へ曲がって行くのだが今回の旅はここまで。 |
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