|
鎌倉街道下道の旅 第3回は保土ヶ谷の「こえん場跡」から。
旧東海道と交差する こえんば横丁 の先から北に向かい国道16号を横断して三ツ沢競技場のある高台へと上っていく。
その先は岸根公園の脇を通りJR横浜線と東横線が交差する菊名駅へ出たら綱島街道東側の旧道に入り師岡熊野神社まで。
今回の旅では上り坂の繰り返しが多かったことと気温・湿度が高かったことで少々キツイ街道歩きとなってしまった。 |
福聚寺の下から「消滅した旧道は今井川のこの辺りに来ていた」(左)のではないだろうか。向うに神戸橋が見えるがその手前50mほどの場所で、対岸に銭湯の煙突が見える(矢印)。
旧東海道の「高札場跡標柱」反対側の狭い路地奥に「第二常磐湯」(右)があるが、消滅した旧道は今井川を渡ってこの辺りに来ていたようで、ここを「こえん場(越場・徒渉地)」と呼んでいた。 |
路地を出て旧東海道を横切ると「高札場跡標柱」(左)があるがその脇から郵便局前を通る道が鎌倉街道下道の名残り。
郵便局の先から右に曲がると、一部消滅しているが旧道の雰囲気が残る「崖下の細い道」(右)で その先は帷子川を渡って国道16号を横断し、三ツ沢競技場のある丘陵地へと上っていく。 |
崖下道から10分ほど歩くと寺院が何軒か続く。左手高台の「大蓮寺」(左)は慶長13年(1608)の創建ということだが、仁治3年(1242)に日蓮上人が泊まった家を法華堂と改めたのが寺の始まりだとか。
本堂前の古木は徳川家康の側室「おまんの方お手植えの柘榴」(右)。初代か2代目かは不明だが今も樹勢衰えずザクロが幾つも実っている。 |
ほどなく神明社前交差点に差し掛かるが、その際に「古東海道」(左)と刻まれた石碑が1基。左側面には相州道と。
古東海道とあるが律令時代の東海道ではなく旧東海道・保土ヶ谷宿が整備される以前の江戸時代初期の東海道。いうなれば旧旧東海道。ちょっと紛らわしい石碑だ。
その後ろの祠に納められているのは「庚申塔」(右)。元禄7年(1694)と元禄9年(1696)に造立されたもの。左側の庚申塔をよく見るとショケラをぶら下げている。ちょっと珍しいかな。
|
交差点を左に曲がると石鳥居の先に長い参道が続くが ここは千年以上の歴史を持つ「神明社」(左)。
御由緒によると天禄元年(970)に榛谷の地(保土ヶ谷)に天照大神が影向(神仏が仮の姿をとって現れること)したのが始まりという。 当時は年間に七十五回もの祭祀を行うほどの隆盛を極めていたのだとか。
交差点を渡って数分、「旧古町橋跡説明板」(右)が建てられているが、ここは江戸時代初期の東海道が通っていた場所で古町と呼ばれ帷子川に架かる橋を古町橋と呼んでいた。 |
その先の相鉄線踏切りを渡り帷子川を越えると旧道は消滅するので現在の道沿いに歩き 宮田二丁目交差点で国道16号を横断。 |
国道を横断したらすぐ右手の「延命地蔵堂」(左)に寄り道を。
その昔、行き倒れの旅人の供養と旅人の安全を祈願して建立された地蔵尊だと云われている。
国道を横断した左手100mほどの場所から「旧道が復活」(右)。 この道がなんとも気が重くなるような急な上り坂。10分ほど上ると裁判所通りに合流するがその先も緩い上り坂が続く。 |
坂道を20分ほど上ってきたら「三叉路を右に入って行く」(左)のだが ここが見落としやすい(自分も見落としてしまった)。うっかり真っ直ぐ進んでしまうと同じような景色は2度と現れてこない。
右側の旧道に入りるとほどなく「三ツ沢公園の林」(右)に。この道は尾根道なので景色が良いはず、だが両側に家が立ち並ぶため全く見通しが悪い。
|
林を抜けると三ツ沢競技場の前へ出るがその先は消滅。
競技場の西側を通って市民病院前へ出たら真っすぐ進み「岡沢橋」(左)を渡って細い道を下って行く。
下りきったら国道1号を歩道橋で横断し今度は神大寺(かんだいじ)の高台へ。何カ所か消滅した部分もあるが道なりに進むと岸根公園脇の「水道道」(右)に合流。水道道を西岸根交差点まで下ると その先はまたまた上り坂。 |
交差点を渡って100mほど先の路地を左に入ると僅かな区間だが旧道が残っている。 |
旧道から水道道に戻り坂道を上りきったら左に入り 尾根道を右回りに10数分、到着した場所は「篠原八幡神社」(左)。
この神社は知る人ぞ知る神社。冬至の朝、上ってきた太陽は鳥居を潜って参道を真っ直ぐ進み御神体である本殿の鏡に反射して再び参道に戻ってくる。この日はこの現象を見ようと朝早くから地元の人で大賑わい。
篠原八幡神社を出たらすぐ先の三叉路を右に入り長い下り坂を下ると「JR横浜線菊名駅のホーム下」(右)。街道はこの手前から消滅。東横線菊名駅の構内を通って向う側へ。 |
綱島街道の東側を通る旧道に入って数分、ちょっと珍しい真っ黒な鳥居の神社は「菊名神社」(左)。近隣の阿府(あぶ)神社など五社を合祀して昭和10年(1935)に菊名神社として誕生。阿府神社の歴史は任和元年(885)まで遡ると云われている。
この先は旧道を15分ほど歩き環状2号道路を横断して綱島街道に合流。 合流点にちょっと小さめの「庚申塔」(右)が1基。銘に文化5年(1808)とある。左手に持っているのはショケラかな。 |
綱島街道の緩い坂を上っていくと熊野神社入口と表示があるので寄り道を。 |
数分歩いた左奥の「法華寺」(左)は仁和元年(885)の草創という古刹。江戸時代末まではこの先の師岡熊野神社の別当寺であった。
法華寺のすぐ先右側の池は「い」の形をしていることから「いの池」と呼ばれており片目の鯉の伝説が残されている。
遠い昔、熊野神社の権現様が悪者を退治したときに弓矢で片目を射られてしまった。その時、「いの池」の鯉が片目を権現様に差し出したのだそうだ。池の中央に見える祠は弁天社。
|
いの池前の参道階段を上がると「師岡熊野神社」(左)。神社略記によると神亀元年(724)に全寿仙人によって草創されたという古社。筒粥神事は天略3年(949)から千有余年、途切れたことが無いという。
本殿裏の「の の池」(右)は「の」の字に似ているからだそうだが見た目はなんとも。 小さな池だ。筒粥神事は どんな日照りでも涸れることが無いというこの池の水を使って行われる。
かつては「ち の池」もあったが現在は埋め立てられ公園に変わってしまった。気が付いただろうか「い・の・ち の池」。 |
|