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①鎌倉から金沢文庫  ②金沢文庫から保土ヶ谷  ③保土ヶ谷から師岡熊野神社  ④師岡熊野神社から丸子の渡 ⑤丸子の渡から大井 ⑥大井から赤羽橋 ⑦赤羽橋から浅草  ⑧浅草から白髭橋  ⑨白髭橋から国府台

④師岡熊野神社から丸子の渡しまで 街道地図

鎌倉街道下道の旅 第4回は師岡熊野神社から。

街道から一歩入った高台にある神社は神亀元年(724)草創という古社。旅の安全を祈願したら街道歩きスタート。
鶴見川の大綱橋を渡り西北に向かったのち北進して日吉本町に入りその先の丘陵地に上っていく。
住宅地を抜けた後、わずかに残る往時のままの旧道を下り蟹谷集落を通って小関橋跡まで来ると その先は旧道が
はっきりしない。 旧道に近い道を歩いて大戸神社前から旧中原街道に合流して丸子の渡し跡までテクテクと。
今回歩いたコースでは消滅した旧道が比較的少なかったが小関橋から大戸神社までは芳賀善次郎氏が推測する
道を歩くことにした。

 平成28年7月19日

旅のスタートは「師岡熊野神社」(左)から。
仁和元年(885)に光孝天皇の勅使によって「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜わり それ以降も宇多、醍醐、村上天皇の勅願所になったという畏れ多い神社。御利益も大きいだろう。

街道に戻り緩い坂道を上った先は下り坂。この坂を「おぼろ坂」(右)と言う。かつては深い森の中の道、霧が立ち込める夜は背中がぞくぞくっと妖気めいた気分におそわれたものだという。

おぼろ坂の途中に小さな祠があったので覗いてみると「双体道祖神」(左)が祀られているではないか。
双体道祖神=信州 と思っていたが横浜にも結構多くありますね。
その隣の祠には「庚申塔が2体」(右)。

おぼろ坂を下った先から旧道に入り10分ほどで綱島街道に合流したら大綱橋を渡って行く。この橋は応永12年(1405)には架橋されていたようで明治中頃に大綱村が出来た時に大綱橋と命名。

大綱橋を渡ったら最初の交差点を左へ曲がって綱島商店街へ入り東横線のガード下を通ったらちょっと寄り道を。

商店街から一歩右へ入った東照寺は慶安2年(1649)の創建ということだが御本尊の薬師如来は僧行基の作だという。

参道左側にかなり古そうな「六地蔵」(左)が並んでいるが銘を見ると二百年ほど前の文化2年(1805)とある。
正面の「参道階段」(右)は文化元年(1804)の造立。階段上に建てられた敷石供養塔に文化元年と刻まれている。

街道に戻り10分ほど歩いたら小さな交差点を右に曲がると来迎寺(無住だが廃寺ではない)に庚申塔と石塔が。
元禄5年(1692)銘のある「庚申塔」(左)には青面金剛ならぬ聖徳太子像が彫られているではないか。地蔵尊が彫られた庚申塔があったが聖徳太子は初めて。

賽の神ならぬ「歳神塔」(右)も。正月に家々にやってくるという歳神様(年神様)のことだろう。明治21年(1888)と銘がある。

来迎寺脇から道なりに5分、正面に見えるのは「飯田家の長屋門」(左)。名主であった飯田家の長屋門は江戸時代後期に建てられたと推定。主屋(冒頭写真)は明治中期の建設だがまだ現役のようだ。

この先は耕地整理で旧道は消滅しているが芳賀善次郎氏によれば地下鉄日吉本町駅近くまでは現在の道が旧道の道筋に沿っている。その先は丘陵地へ上っていくのだがその前に「金蔵寺」(右)に寄り道を。金蔵寺は平安時代の貞観年間(859~876)に清和天皇の勅願により創建されたという古刹。江戸時代には徳川家の庇護も厚かった。

境内右手の「鐘楼」(左)に下げられている梵鐘は徳川家康・秀忠父子により寄進されたもの。今も現役で除夜の鐘を鳴らしている。
境内左手に大小の「板碑」(右)が3枚。造立年は嘉吉4年(1444)、建武元年(1334)、嘉歴元年(1326)

本堂前に絢爛豪華な灯篭が据えられているが、もっと派手なのが水盤舎。地蔵堂や本堂裏の弁天堂もすごい。
水盤舎の後ろからパンダが顔を出しているのがなんとも滑稽。

日吉本町駅の近くから先の道は消滅状態。目の前の丘陵を上る方法と丘陵を避けて東に回り込む方法が考えられるが今回は路地奥の「階段を上り」(左)丘陵を越える道を選んだ。

ひと山越えた先の西量寺で「水掛け観音」(右)なる可愛らしい観音様に出会える。近所の子ども達がどぶ池の中から拾い上げた観音様。西量寺に預けられ開眼供養。

西量寺脇から坂道を上って下田町のUR団地まで来たら団地脇を下って行くと道路際にポツンと立っていたのは「鎌倉街道碑」(左下)。

かつて、ここには 松の川 という小川があったのだが碑の背面に次のようなことが記されている。「源頼朝がこの地を通過したとき駒を橋のかわりにしたことからここを駒が橋というようになった」。

バス通りへ出たら横断して再び高台へ上っていくのだが ここでもちょっと寄り道を。
真福寺に京大俳句事件に連座して投獄され2年余の投獄生活を余儀なくされた「秋元不死男の句碑」(右)がある。
   けふありて 銀河をくぐり わかれけり  不死男

緩い上り坂を道なりに15分、養護学校の手前に左へ下る急坂があるが この「坂道が鎌倉街道の旧道」(左)。土道・草道であったら「往時のままの旧道下り坂」と書きたいところだ。

その先の階段を下ると「広い道になり車道に合流」(右)。合流点の左側に庚申堂、右側に地蔵堂がある。

右へ曲がった街道は矢上川を渡り、県道14号を横断し、江川緑道の小関橋跡まで続くが、その先ははっきりしない。芳賀善次郎氏は東へ曲がって大戸神社前に出たのだろうと推測。

江川を渡る橋の上に「小関橋跡碑」(左)が。江川は二ヶ領用水から分水した根方堀跡。江戸時代に造られた用水堀なので鎌倉時代には無かった。

江川を渡ったら50mほど先を右に曲がり六差路まで来たら左に曲がって道なりに15分ほど歩くと中原街道に合流。合流点の向う側は「大戸神社」(右)。永正年間(1504~21)、吉良家の領地である下小田中村に信濃国戸穏大明神を勧請。
なんと、拝殿前に砲弾を抱えた狛犬が。

大戸神社前から丸子の渡しまでは徳川家康が江戸城入場の際に通った 中原街道と重なっている。JR南武線の高架下を通り過ぎると小さな祠が点在しているのでまとめて紹介。

南武線の高架下を過ぎて4~5分、左の路地を入ると暗渠の上が歩道になっているが、ここは二ヶ領用水の支流「木月堀跡」(左))。ちなみに一つ手前の路地を入った所は井田堀跡。


木月堀の右側は名主・原家の屋敷跡だが、かつては繁った木々に囲まれ薄暗かったことから「くらやみ」(右)と呼ばれていたそうだ。

街道に戻り4~5分歩くと旧中原村役場跡」(左)。
「明治22年(1889)、市町村制の施行で誕生した村の名前を中原街道にちなんで『中原村』に。役場を設置した場所は街道を丸子橋から岩川橋まで実測し、その真ん中に」。

その先の「泉澤寺」(右)は戦国時代の豪族・吉良氏の菩提寺として延徳3年(1491)に旧多摩郡烏山に創建されたのが始まり。火災で堂宇が焼失したため天文19年(1550)に現在地へ移転。

国道409号(府中街道)を横断して数分、丁字路際の祠は「油屋の庚申塔」(右)。ここは油屋の屋号を持つ家の角。台座は道標を兼ねており刻まれている道筋は「東江戸道、西大山道、南大師道」。

その先数分、バス停後ろの石塔は「小杉駅供養塔道標」(左)。左側面に稲毛領小杉駅と刻まれたこの供養塔の台座部分も道標になっており「東江戸・西中原 道」とある。

すぐ先は カギの道 と呼ばれる左直角・右直角に曲がる見事な枡形道。徳川家康が造らせた小杉御殿を守るための道路構造であった。

枡形道を出た所の石塔は「徳川将軍小杉御殿跡碑」(左)。家康が鷹狩の際の休憩所として殿舎を造り、秀忠が御殿として完成させたのだが万治3年(1660)に廃止。

御殿跡碑横の参道先は小杉御殿が建設された当時に近くの有馬村から移転してきた「西明寺」(右)。西明寺の歴史は古く、弘法大師が東国御巡化の際、堂宇を建立されたのが始まりとも伝わっている。

枡形道まで戻ったらもう少し寄り道を。

住宅地のちょっと奥まった場所に「小杉御殿の御主殿跡」(左)がある。今はすっかり住宅に囲まれてしまい御主殿稲荷がポツンと建てられているだけだ。

もう少し先の陣屋稲荷がある場所は「小杉陣屋跡」(右)。二ケ領用水の建設を行った代官小泉次太夫はここに陣屋を設け14年に及ぶ難工事の指揮に当たったという。

枡形道まで戻り数分歩くと「石橋醤油店」(左)の看板がある家が。明治3年(1870)から醤油造りを始めたが昭和26年(1951)に操業を終了。キッコー「文山」の商標は大変な人気だった。

その先数分、ちょっと奥まった所に「安藤家長屋門」(右)が見える。小杉村の割元名主であった安藤家が幕末ごろに建てた長屋門は総欅造りの豪華なもの。外からだと全容が見られないのが残念。

すぐ先の屋敷門は「原家の陣屋門」(左)。
原家は肥料問屋から家業を拡大させた小杉陣屋町の豪商。明治時代に総欅造りの母屋を完成させている。この母屋は多摩区の民家園に移築されたが写真の陣屋門は当時のもの。

東横線のガードを潜り、現・中原街道を横断して多摩川の土手に上がると「丸子の渡し跡碑」(右)がある。はずだったが、見つからんのです。なんと雑草が伸びて埋もれていました。

今回の旅はここまで。次回は新しくなった丸子橋を渡って都内の旅へ。

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