表紙へ戻る



①鎌倉から金沢文庫  ②金沢文庫から保土ヶ谷  ③保土ヶ谷から師岡熊野神社  ④師岡熊野神社から丸子の渡 ⑤丸子の渡から大井 ⑥大井から赤羽橋 ⑦赤羽橋から浅草  ⑧浅草から白髭橋  ⑨白髭橋から国府台

⑤丸子の渡しから大井まで 街道地図

鎌倉街道下道の旅 第回は川崎側の 丸子の渡し碑 前から。

多摩川に架かる新・丸子橋を渡ると東京都。これからは都内の旅となる。丸子橋を渡ったら旧中原街道と別れ、
しばらくは六郷用水跡の遊歩道を歩き、池上本門寺に寄り道しながらJR大森駅前へ。 大森では縄文時代まで
遡って大森貝塚に寄り道した後、消滅した旧道を探しながら大井三又を通って品川区役所手前までが今回のコース。
池上本門寺で突然の夕立に遭い、激しい雨とカミナリのため仁王門の下で一時間の雨宿り。歩く距離がちょっと
短くなってしまった。

 平成28年8月1日

「新・丸子橋」(左)を歩いていると橋の真ん中に 県境 が。
この橋は平成12年(2000)年に架け替えられたものだが歩道が思い切り広くなっており すこぶる快適。

橋を渡り切った向う側に「旧丸子橋の親柱」(右)が左右一対で保存されている。旧丸子橋が完成したのは昭和9年(1934)。それまでは舟渡しだった。

土手上の道を数分歩き河川敷公園に下りると江戸側の 丸子の渡し跡説明板 が立てられている。

東急多摩川線の踏切を渡り新幹線の高架下を通った先の左上は「密蔵院」(左)。何度も火災に遭い詳しい事は不明となってしまったが鎌倉時代の開創と伝わる古刹。

密蔵院前を流れる小さな川は「六郷用水跡」(右)。六郷地方の米の増収を図るために建設された灌漑用水跡で代官・小泉次太夫が建設指揮をしたことから次太夫堀とも。途中から遊歩道に変わっているが、所々に六郷用水の跡碑 や関連する説明板が。

しばらく歩いた先の小公園は「女堀跡」(左)。
説明板によると、この辺りの地形は堅い地盤で工事が難航。女性も動員して開削したので女堀とも、次太夫の夢枕に女神(木花咲弥姫)が現れ お告げ通りに工事を行ったから女堀とも。

環状八号を越えた先の鵜の木八幡神社にちょっと変わった狛犬が。題して「子育て中の狛犬」(右)。なんとこの狛犬は授乳中なのである。境内外側の 庚申塔2基 も見ておきたい。

鵜の木八幡神社の先は用水跡の遊歩道を歩くのだが、六郷用水の跡碑・光明寺大門前の堰と水車・下丸子への分水口跡・小泉次太夫物語などの説明板や
題目碑が厭きない程度の間隔で現れる。

国道1号を横断して10分ほど歩くと池上本門寺参道前に到着するが、そこには江戸時代から続く老舗が3軒。
相模屋は元禄9年(1696)の創業。
当初は茶店・団子屋であったが、現在は
くず餅専門店。 きな粉と黒蜜を掛けて
食べるくず餅は絶品。

コメント:現在は店名が藤乃屋に変わっています。
この道標は相模屋初代店主が元禄9年(1696)に
建てたもの。正面に題目が刻まれ、側面に
「これよりひたり かわさき道 古川道」。
本門寺前交差点の池田屋も江戸時代
創業のくず餅専門店。ゆったりした店内
で茶飯と一緒に食べるくず餅もなかなか
乙なもの。
交差点反対側の古民家は萬屋酒店。
厨子二階建て出桁造りの建物は明治8年
(1875)の建築で登録有形文化財。

萬屋酒店先に 南無妙法蓮華経 と刻まれた文化8年(1811)建立の「題目碑」(左)が1基。その先の霊山橋を渡ると池上本門寺総門。総門を入ると本門寺の境内だ。

総門を入った目の前の石段は加藤清正の寄進によって造営されたと伝えられている。別称を「此経難持坂(しきょうなんじさか)(右)というそうだが法華経の偈文96文字にちなみ96段に構築。

此経難持坂を上った先の「仁王門」(左)は昭和52年(1977)に再建されたもので仁王像はプロレスらーのアントニオ猪木さんがモデルだとか。 と聞いていたが現在の仁王像は平成13年(2001)に設置された別物。
猪木・仁王は本殿に安置されているそうだ。

仁王門を潜ると目の前は昭和39年(1964)に再建された「本門寺大堂」(右)。
弘安5年(1282)、日蓮が病気療養のため常陸へ向かう途中に立ち寄ったのが池上郷。ここに一宇を建立し開堂供養したのが本門寺の起源という。日蓮はここに20数日間逗留した後、当地で入滅。

仁王門先右手奥の五重塔へ向かう途中に思わぬものが。
それは「前田利家側室(寿福院)の層塔」(左)。三代加賀藩主利常の生母で、江戸に差し出され人質となった寿福院が元和8年(1622)に自身の逆修供養のために建立したもの。当初は11層であった。

その奥にあったのは「加藤清正側室(正応院)の層塔」(右)。清正の嫡男忠弘の生母である正応院が自身の逆修供養のために寛文3年(1626)に建てたもので、これも当初は11層の石塔。

本門寺の「五重塔」(左)は二代将軍秀忠の乳母・春日局の発願により慶長13年(1608)に完成した関東最古の五重塔で、国の重要文化財。

仁王門前まで戻ると鐘楼脇にもう1基「梵鐘」(右)があるが これは正徳4年(1714)に改鋳されたもので、元の梵鐘は瑤林院(紀伊徳川頼宣の室)が寄進したもの。火災により損傷し改鋳したと伝えられている。
この梵鐘は昭和20年(1945)の空襲で亀裂が入ったため現役を引退。  

もう少し寄り道を。

大堂裏手から階段を下ると右手に見えるのは重要文化財の「多宝塔」(左)。宗祖日蓮を荼毘に付した場所に建つ供養塔で文政11年(1828)に上棟。日蓮大聖人御所持の念珠が奉安されている。

階段を下りた右奥は日蓮入滅の地 「大坊・本行寺」(右)。
日蓮が郷主・池上宗仲氏の館で逗留中に没すると その居館が寄進され本行寺の開創に至った。

池上本門寺では夕立の為1時間ほど雨宿りを余儀なくされてしまったが夕立のおかげで少し涼しくなったようだ。

街道に戻って15~16分、公園の入口に「いにしえの東海道」(左)と刻まれた石碑が1基。説明文に「この道は 時代により 奥州街道 相州鎌倉街道 平間街道 池上往還 と呼ばれた古道です」とある。

さらに10分、街道際に鎮座するのは奈良春日神社の御分霊を勧請し鎌倉時代に創建したと伝わる「春日神社」(右)。 氏子の数が五千人を越えるということだが普段は静かな神社だ。

春日神社の先にも「いにしえの東海道碑」が。

ほどなく現・池上通りに合流し商店街を通ってJR大森駅方向へ向かって行く。

商店街の途中、路地を入った左奥の 善慶寺墓地で見たのは「新井宿義民六人衆の墓」(左)。年貢減免を願い出た百姓六人が処刑された事件で、縁故関係の人物が密かに造立したのがこの墓石。

ほどなく緩い上り坂となるが この坂を「八景坂」(右)という。坂上からの眺めは素晴らしく、近くは大森海岸から遠くは房総まで一望であったという。そこから八景坂と呼ばれるようになった。
今はかなり掘り下げられたことや駅舎や商店街に阻まれ全く見通しが悪い。

JR大森駅前まで来たらちょっと寄り道を。
左手の階段を上り さらに48段の石段を上った先の高台にあるのは「天祖神社」(左)。かつての八景坂はこの辺りを通っていたようで安藤広重の 名所江戸百景・八景坂鎧掛松 に描かれている。

拝殿前に展示されている切り株は その「鎧掛松」(右)。平安時代末期の頃、八幡太郎義家が東征のおり、坂上で休憩した際に鎧を松の枝に掛けて風景を眺め汗を拭いたという。

街道に戻ったら縄文時代に寄り道を。

5分ほど先のNTTビル脇を入り線路際まで行くと「大森貝墟碑」(左)が建てられており、300mほど先の品川区に入ると大森貝塚遺跡庭園にも「大森貝塚碑」(右)がある。

アメリカのモース博士が明治10年(1877)に横浜から新橋へ向かう途中、車窓から大森貝塚を発見。発掘調査を行ったモース博士の報告書に場所の詳細が記されていなかったことから大田区説と品川区説が存在してしまったようだ。

この先は旧道が消滅状態。近い道を歩くことに。

池上通り沿いに鎮座する「鹿島神社」(左)は安和2年(969)に尊栄法院が常陸国鹿島神宮から分霊を勧請し創建したという古社。現社殿は池上通りの方向に向いているが かつては海側(旧道方向)に向いていた。

鹿島神社の隣が別当寺であった来迎院。 こちらも尊栄法院が安和2年に建立。徳川家光の時代、鷹狩の際の休息所となったことから お茶屋御殿寺 とも。その「来迎院本堂」(右)は寛文7年(1667)の建築で品川区最古の木造建物。

来迎院の道路を挟んだ反対側に小さな「御堂が3棟」(左)。
それぞれに石仏が安置されているが右側の堂に納められているのは来迎院石造念仏供養塔。 江戸時代初期の明暦から寛文にかけての造立で大井村の念仏講衆が建立したもの。

3~4分歩いた先の光福寺墓地内に「大井の井」(右)なる大井戸がある。 親鸞聖人の弟子であった了海上人が生まれた時、境内に こつ然と泉が湧き出したという。その泉を大井と命名したそうだが「大井」という地名はここに由来。

光福寺の先も旧道の道筋が不明だが西光寺前を通り作守稲荷横を通って到着した場所は「大井三又交差点」(左)。

交差点を渡った所に「三又身代り地蔵堂」(右)があるが次のような言い伝えが。
その昔、諸国行脚の高僧が通りかかると地中から読経が聞こえるので掘ってみると地蔵菩薩が出てきたという。この場所に祀ったところ庶民の信仰を集め今でも線香が絶えることがない。

 

地蔵堂左側の道を数分歩くと「庚申堂」(右)があるが ここにも土中から読経が聞こえ 掘ってみると地蔵尊があった、という伝説がある。だが、祀られているのは地蔵尊ならぬ庚申塔。

この先も旧道が消滅しているが芳賀善次郎氏は 「庚申堂北を西に行くと公園があり その西角から北に下る道が旧道」 としている。旧道を数分歩いた所にあったのは「大井蔵王権現神社」(右)。
江戸時代、火事や疫病が流行ったときも この地域だけは権現神社のおかげでこれらの災難に遭わず無事であったという。

この先は旧道が消滅状態なので今回の旅はここまでとした。

前の街道 師岡熊野神社から丸子の渡しに戻る   次の街道大井から赤羽橋へ    表紙へ戻る