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鎌倉から金沢文庫  ②金沢文庫から保土ヶ谷  ③保土ヶ谷から師岡熊野神社 師岡熊野神社から丸子の渡 ⑤丸子の渡から大井 ⑥大井から赤羽橋 ⑦赤羽橋から浅草  ⑧浅草から白髭橋  ⑨白髭橋から国府台

⑨白髭橋から市川・国府台まで 街道地図


鎌倉街道下道の旅 8回目(最終回)の後半は白髭橋から。 

この先は隅田川 ・ 荒川 ・ 中川 ・ 新中川(旧中川放水路) ・ 江戸川の5本の河川を越えて千葉県市川に入り、
国府台城があったという里見公園までの旅である。
途中に荒川(旧荒川放水路)という江戸時代には無かった川が出来てしまったり、江戸川では市川橋まで迂回という
遠回りを強いられたり、往時の面影が全く残っていない道路を1時間近く歩いたりしたが、ゴールの里見公園に
到着すれば疲れも吹き飛ぶというものだ。


 平成28年10月3日

白髭橋を渡り東白髭公園内を10分ほど歩くと「隅田宿(すだのしゅく)跡」(左)と記された説明板が建てられている。
それによると「この地は古東海道の渡河地で平安時代の末頃には隅田宿が成立していた。また江戸氏など中世武士団の軍事拠点でもあったと考えられる」

その向こうに見えるのは「隅田川神社」(右)。源頼朝挙兵の治承4年(1180)、水神の霊験を感じた頼朝が創建したと伝えられる。写真では分かりにくいが拝殿前には狛犬ならぬ狛亀が。

隅田川神社から200mほど先の木母寺に戦災で焼失を免れた「梅若堂」(左下)が大切に保存されている。(ガラス覆屋の中なのでちょっと見ずらい)

尋ね来て 問わば応えよ都鳥 隅田川原の 露と消えぬと の辞世の句を残し12年の生涯を閉じたのは梅若丸。
比叡山で修行中だった梅若丸は誘拐され隅田川原まで来たが病に倒れ落命。憐れんだ僧忠円が塚を築き弔ったのだった。               梅若伝説はこちら

その塚跡に「梅若塚碑」(右)が建てられている。場所は墨堤通りと都営アパートの間の小さな公園内だが木母寺も元々はこの辺りにあったが大規模開発の影響で現在地へ移転。

墨堤通りを横断し東武鐘ヶ淵駅横の商店街を進むと荒川の土手に突き当たる。かつては無かった川だ。土手に上がり下流方向へ10分ほど歩いて四ツ木橋を渡り対岸へ。

旧道に戻り国道6号を横断したらちょっと寄り道を。

路地を入った奥の「西光寺」(左)は鎌倉時代の豪族であった葛西三郎清重の館跡。 当寺は嘉禄元年(1225)に清重が創建したと伝えられている。
その「葛西清重の墓」(右)が寺のちょっと先、西町会館の横にある。

街道に戻り京成押上線の踏切を越えて奥戸街道に入り十数分。商店街の一角にあったのは「喜多向観音」(左)。
妙本という尼さんが浅草寺千日詣で満願の日、枕頭に観世音菩薩が現れ「汝の願い叶う可し、かわん」と言うや姿を消してしまったという。そのお礼に建てたのが喜多向観音。

その先の本奥戸橋手前の祠の中に仲良く鎮座しているのは「子育て地蔵と馬頭観音」(右)。子育て地蔵は元々は橋際の堤防内にあったもので貞享2年(1685)の建立。馬頭観音は安政2年(1855)の建立。

ここには「出羽三山碑道標」(左)も。 出羽三山講が宝暦5年(1755)に参詣記念として建立したもので背面に刻まれている道筋は「右 江戸みち 左おくとみち 渡し場道」。

鎌倉街道下道は本奥戸橋を渡らず左に曲がっていく。

中川沿いに数分歩くと公園前の「地蔵堂」(右)に仲町子育て地蔵が鎮座している。その数分先、ガードレールの間にひっそりと立っているのは文政3年(1820)に建立された帝釈天王道標

ほどなく左奥に「熊野神社」(左)の鳥居が見えるので寄り道を。
由緒によると「平安時代中期に陰陽師安倍晴明の勧請により創祀」とある。鎌倉時代には葛西三郎清重の崇敬を受け、江戸時代には三代将軍家光や八代吉宗が鷹狩りの際は必ず参拝したという。

街道に戻ると すぐ先の丁字路際に施錠された祠があるが中に鎮座しているのは2体の「とげぬき地蔵」(右)。

この先で中川に架かる奥戸橋を渡ると江戸川まで見どころが無いままの小一時間。この道は律令時代に造られた官道でほぼ一直線。やっと到着した場所が江戸川堤下の真光院。

門前の「双体道祖神?を祀る祠の中にドラエもん」(左)が一緒に祀られているのがなんとも 。

江戸川の土手に上がると目的地の「国府台の森」(右)が彼方に見えるが対岸へ渡るには1kmほど上流の市川橋を迂回しなければならない。

土手上の道を10分ほど歩き京成線のガードを潜ると「小岩 市川の渡し跡」(左)と記された説明板が建てられている。
江戸時代、水戸街道の新宿(にいじゅく)から分かれた佐倉道がここから江戸川を渡り房総方面に向かっていたが江戸防衛の重要な拠点であったことから 小岩・市川の関所が置かれていた。

橋を渡り対岸へ行くと「市川関所跡」(右)があるが、説明板に「奈良・平安時代から関所が設けられ井上駅(いかみのうまや)が置かれていた」とも記されている。

しばらくは土手上の遊歩道を歩き 羅漢の井 の標識が出たら右の坂道を上っていく。

右へ曲がってすぐの所にあるのが「羅漢の井」(左)。 弘法大師が念仏を唱え錫杖を突いたところ清水が湧き出たという。里見氏一族が国府台城へ布陣した際の飲用水として使われたと伝えられている。

羅漢の井の横の階段を上がると整備された里見公園だが ここは「国府台城跡」(右)。文明10年(1478)、太田道灌が仮陣を置き、翌年、弟の太田資忠が築城。しかし徳川家康によって廃城。 

公園の一角に「里見軍将士亡霊の碑」(左)なる石塔がある。
永禄7年(1564)、里見義弘は八千の軍勢で国府台に陣を構えたが北条氏康軍に敗北。 戦死者5千とも云われているが亡霊を弔う者もなかった。霊墓が建てられたのは文政12年(1829)

すぐそばにある「夜泣き石」(右)には悲しい伝説が。
合戦で戦死した里見広次の娘が父の霊を弔うため国府台を訪ね幾日も石にもたれて父の名を呼びながら息絶えた。以来、夜になると悲しい泣き声が聞こえてくるようになったという。

ここまで来たので里見公園隣りの「総寧寺」(左)に寄り道を。
総寧寺は近江国観音寺の城主佐々木氏頼により永徳3年(1383)に創建され天正3年(1575)に下総国関宿に移転。しかし水害の被害に遭い寛文3年(1663)、4代将軍家綱に願って当地へ再移転。

本堂横にある五輪塔は関宿城(現・千葉県野田市)の城主であった「小笠原政信夫妻の供養塔」(右)。総寧寺移転に伴い移されたものだが縁もゆかりもない地に移された政信夫妻は戸惑っていることだろう。

鎌倉武士が 「いざ鎌倉」 というとき駆け抜けた鎌倉街道下道、無事歩き終えました。

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