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①鎌倉から金沢文庫  ②金沢文庫から保土ヶ谷  ③保土ヶ谷から師岡熊野神社  ④師岡熊野神社から丸子の渡 ⑤丸子の渡から大井 ⑥大井から赤羽橋 ⑦赤羽橋から浅草  ⑧浅草から白髭橋  ⑨白髭橋から国府台

②金沢文庫から保土ヶ谷まで 街道地図


鎌倉街道下道の旅、第2回目は金沢文庫から保土ヶ谷まで。
能見台、朝日ヶ丘の二つの峠越えがありちょっとキツイ歩きになるが能見台の江戸時代からの山道や、笹下川沿いの鄙びた
旧道を歩き、旅人を苦しめた岩難坂を下るなど結構面白い街道歩きが出来る。一方で、大規模な宅地開発が行われた結果、
残念ながら旧道が消滅している個所もある。

 平成28年6月29日
金沢文庫交番前信号を過ぎて150mほど歩いたら左に入り京浜急行の踏切を越えて行く。その先の三叉路に立つ石塔は天保10年(1839)建立の「道標」(左上)。
行き先は「右 能見堂・保土ヶ谷 道」。道標に従って右に曲がると ほどなく能見堂跡に至る山道へ。

三叉路を右に曲がり数分、道路際に祀られているのは「庚申塔が3基」(左)。

さらに数分歩くと「六国峠ハイキングコース」の案内があるので表示に従い右へ曲がるといよいよ能見堂に至る「鎌倉時代からの山道」(右)へと入っていく。しばらくは切通しだが民家は見えず、電柱も無く、もちろん舗装もされていない。 まさに江戸時代に旅人が歩いたそのままの道だ。

登り始めて4~5分、崖の中腹に並んでいるのは「馬頭観音・供養塔・石仏」(左)。馬頭観音は天保11年(1840)、石仏は文化12年(1815)に建立されたもの。

さらに十数分歩くと「能見堂跡」(右)に到着。
能見堂の歴史は大変に古く、平安時代に摂政藤原道長が結んだ草庵が始まりと云われているがその後廃絶。寛文年間(1661~73)に領主の久世大和守広之が江戸増上寺の地蔵を移し再興。

一角に享和3年(1803)に建てられた「金沢八景根本地碑」(左)があるが ここは大変景色が良い場所。明の渡来僧・心越禅師が金沢八カ所の勝景を漢詩に詠んだことで金沢八景という名称が定まったという。

景色が良かったことの証しとして次のような逸話がある。
平安時代、宮廷絵師・巨勢金岡がここから金沢の勝景を描こうとしたが内海の潮の干満で時々刻々と変化する絶景に筆が進まず、ついに絵筆を松の根本に投げ捨てたという。その松を「筆捨の松」(右)と言い明治時代に写真に撮られていた。

能見堂跡から5~6分、「山の上まで住宅が」(左)迫ってきており江戸時代から一気に現代へ引き戻されてしまった。
だが すぐに山道に入り再び江戸時代の世界に。

ほどなく「関ケ谷不動尊」(右)の案内があるので右の道を下っていくと不動堂が。元々は不動山にあったのだが宅地開発の影響で現在地へ遷座。今でも初不動は大変な賑わいとなる。

山道に戻りしばらく歩いて 「シティ能見台西バス停」 の案内表示が出たら右ヘ曲がって能見台の森を出ると突然目の前に高層マンション群が。この先は大規模宅地開発で旧道が消滅状態。

能見台北公園の中を歩き、氷取沢高校の脇を歩き、右奥に階段が見えたらこの階段を上ると旧道に復帰。

階段を上って数分、真っ赤に塗られた祠の中に鎮座しているのは「岩船地蔵」(左)。 享保4年(1719)に建立されたもので栃木県の岩船山高勝寺のお地蔵さんを勧請したのだという。

この先は旧道が不明。住宅地の端の道を下り「笹下川沿いの旧道」(右)に入ると しばらくの間はくねくねと曲がった長閑な道が続く。ほどなく笹下釜利谷道路に合流するが10分ほどで再び旧道へ。

旧道入口に「かねさわ道」(左)と題された説明板が設置されている。
それによると「鎌倉・江の島の名所を遊覧する人々でこの道が賑わいました。また黒船来航で騒然としたころは江戸と三浦半島との間で飛脚や沿岸防備の武士が頻繁に往来しました」。

その先に明治41年(1908)建立の「馬頭観音」(右)が1基。

笹下川沿いの旧道を20分ほど歩くと再び 笹下釜利谷道路 に合流。

十数分歩いたら「狸と女性像」(左)がある東樹院に寄道を。
昔々、寺に一夜の宿を借りに来た美しい女性がお礼に茶釜を置いていったそうだ。ある晩、一匹の狸が犬にかみ殺されていたが、その狸は茶釜を置いていった女性の着物を着ていたのであった。和尚さんはその狸をねんごろに葬り、茶釜を寺の宝にしたという。

現・鎌倉街道と交差する 関の下交差点 の手前を左に入ると明治23年(1890)建立の「岡本橋記念碑」(右)がある。 当時の鎌倉街道は大変な悪路。沿道の住民が協力して改修工事を行った記念碑なのだとか。

街道に戻るとその先が「関の下交差点」(左)。近くに 関の上というバス停もあったが関所があったという記録は見当たらない。  

旧鎌倉街道はこの交差点を歩道橋で横断し現・鎌倉街道の1本西側の「旧道」(右)に入って行く。この道は旧道の雰囲気があまり感じられないが車の通りが少なくのんびり歩くことができる。

旧道を10分ほど歩くと現・鎌倉街道に合流。その先の京浜急行ガード下を通ったら今度は「右側の旧道」(左)に入って行く。こちらの旧道も街道時代の面影は感じられないが静かな雰囲気がいいんだな~ 

しばらく歩いたら「旧鎌倉街道」(右)の道路標識がありました。

再び現・鎌倉街道に合流。その先の横浜国大付属中学前に昭和37年(1962)に建立された「鎌倉街道碑」(左)がベンチの間に立っている。バス停のそばなのでいつもベンチに人が。なかなか写真が撮りずらい。

振り向くと道路向う側に見えるのは「弘明寺商店街」(右)のアーケード。
ちょっと遠いが商店街のアーケードを通って弘明寺観音に寄り道を。

弘明寺は1300年近く前の養老5年(721)に開創された寺で17年後の天平9年(737)に僧行基が草庵を作り彫刻祈願。その時彫られた十一面観音菩薩が現在の御本尊。

明和3年(1766)に再建された「本堂」(左)は寛徳元年(1044)に建立された時の古材も使われているのだとか。

境内右手の「鐘楼」(右)に吊るされた梵鐘は江戸時代中期の寛政10年(1798)に鋳造されたという古いもの。先の戦争で鉄砲玉にならなくて良かった~

街道に戻ったら現・鎌倉街道をテクテクと15分、思わぬものが。

歩道の端に「横浜市営地下鉄 第1号車両搬入の地」(左)と記された標柱が。  側面に「・・車両がクレーンで搬入されました・・」とある。 「地下鉄の電車はどこから入れたの?」という漫才があったが、ここに答えがありました。

鎌倉街道旧道はすぐ先の交差点を左に曲がり大岡川に架かる蒔田橋を渡り、すぐに右へ曲がっていく。

数分先の交差点左奥に「井土ヶ谷事件の跡地」(右)が見える。生麦事件と同じ外人殺傷事件で、発生したのは文久3年(1863)

この先は京浜急行のガード下を通り清水ヶ丘公園に向かって坂道を上っていくのだが、この坂がキツイ!

横浜清風高校手前の交差点際に鎮座しているのは「北向き地蔵」(左)僧三譽伝入(さんよでんにゅう)が享保2年(1717)に旅人の道中安全を祈願して建立したもの。台座部分は道標。


この辺りが峠の頂でその先から岩名坂を下って行くのだが、この坂が はんぱでない急坂。 下りでよかった~  別名「岩難坂」(右)と呼ばれていたそうだが、まさに難坂だ。

5分ほど下って来ると左手に見えるのは「御所台の井戸」(左)。別名「政子の井戸」とも呼ばれているが源頼朝の妻政子がここを通りかかったとき この井戸の水を汲んで化粧の時に使ったと伝わっている。

その先右手の崖下にあったのは地蔵尊ならぬ庚申塔。庚申信仰の最初の頃は主尊として地蔵尊などもあった。因みにこの庚申塔は元禄10年(1697)の建立。

脇の階段を上がると多数の「石仏」(右)が。説明板等が無いため詳しいことは分からないが近辺の石仏を集めたようだ。

すぐ先の右手、階段上の福聚寺に変わった人物の墓がある。

本堂の裏手にあったのは「五返舎半九の墓」(左)。 十返舎一九の弟子であったことから 五返舎半九 。
人を食った筆名だが幕末の戯作者で十篇近い作品があるとか。

福聚寺から街道に戻るとその先は国道1号。ここを横断し東海道線の踏切を渡ると旧東海道保土ヶ谷宿の金沢横丁。

この横丁に道標が4基。江戸時代には東海道から別れて金沢八景方面へ向った道で金沢道と呼んでいた。 道標はいずれも江戸時代に建てられたもの。 コメント:詳しくはこちらを。

道標先の十字路に「金沢横丁標柱」(左)が建てられているが この十字路を南北に走る道が旧東海道。

この交差点を右に曲がり100mほど歩くと「高札場跡標柱」(右)が建てられている。そこを左に曲がる道が鎌倉街道下道で「こえん場道」と呼ばれていた。

福聚寺の下で消滅した旧道は高札場跡標柱の反対側にある路地奥の常磐湯あたりに来ていたとされており、その場所は今井川を越えてきたことから「こえん場(越場・徒渉地)」。

次回の旅は「こえん場跡」あたりから。

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