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鎌倉街道中道

①鎌倉から柏尾    ②柏尾から中山  ③中山から溝口   溝口から二子の渡し   二子橋から渋谷   渋谷から抜弁天(新宿余丁町)   抜弁天から東池袋  ⑥東池袋から川口宿

③ 中山から溝口まで      街道地図

中道の旅、3回目は長泉寺横から。 鶴見川を渡り、川和、荏田、宮前平、宮崎台、梶ヶ谷を通って
溝口まで歩くのだが山越えを何回も繰り返すので夏場の歩きは体力の消耗が激しいだろう。
今回歩くコースは港北ニュータウンや東急電鉄の大規模宅地開発で旧道が不明になっているところが
多いが 思わぬところに昔のままの旧道が残っていたり 各幅されているが旧道であったりと、それなりに
楽しみながら歩くことができる。
荏田から先、二子の渡しまでは矢倉沢往還(大山街道)と重なっている。

 平成29年1月10日

前回終了した長泉寺の横から狭い道に入り数分。 JR横浜線の 「中山第二踏切」(左)を渡り路地のような狭い道をさらに進んで行くとその先は工場の敷地内となり消滅。

一旦 中原街道に出て恩田川に架かる都橋を渡り 青砥交差点を右に入ると旧道が復活するが 旧道に入る前に寄り道を。
蓮生寺の境内に「青砥大明神」(右)が祀られている。鎌倉時代、当地を治めていた青砥左衛門尉藤綱公没後、その徳望を慕う村人が墳墓を造りお祀りしたという。現在の青砥大明神は享和3年(1803)に再建したもの。

旧道に入ってすぐの街道際に「水難者供養塔・地蔵尊・庚申塔」(左)が建てられている。明治時代までは鶴見川水系の氾濫が幾度となく繰り返された歴史がある。

その先は中原街道が拡幅されたため旧道が消滅してしまったが数分歩くとわずかな区間だが旧道が復活。
旧道に入ると「北八朔子育北向き地蔵」(右)が鎮座。この先は旧道が消滅しているので地蔵の渡し跡までは旧道に近い道を歩く事に。

鶴見川に架かる精進橋まで歩いてきたが地蔵の渡しは精進橋の下流側辺り。しかし堤防に降りることができない。

橋を渡りきった先の交差点から「下流側の精進橋」(左)まで歩き撮影したのが右写真の「地蔵の渡し跡付近」(右)。この辺りは大規模治水対策が行われた結果、流れがだいぶ変わってしまったようだ。

渡し場に地蔵尊があったので 地蔵の渡し と呼ばれていたが その地蔵はもう少し先の天宗寺に移されている。

交差点まで戻り畑の中の細い道を数分歩いて旧道に復帰。

旧道に戻ったら最初の路地を入ると「上宿道祖神祠」(左)があるのだが、なんと、祠内は正月飾りで埋め尽くされており道祖神が見えない。正月飾りをかき分けるとやっと夫婦道祖神が見えました。
地元の人に聞くと昔からの慣わしで どんど焼きの時にお焚き上げするため祠内に入れておくのだという。

街道に戻りちょっと歩くと「八坂神社」(右)があるのだが由緒などが無いため詳しいことは分からない。
境内左手に建てられている二十三夜塔は明治41年(1908)の建立。

八坂神社の数分先にある石塔は「中宿の道祖神と庚申塔」(左)。古いようには感じられなかったが、建立年を見落としたのが残念。

数分歩いたらちょっと遠いが 地蔵の渡し にあった地蔵尊が天宗寺に移されているというので寄り道を。

その途中にあったのが「川和八幡神社」(右)。由緒によると創立年代不詳だが古くは川輪神社と称す、とある。また貞観17年(875)、に従五位下を授け給へり とあるので歴史はかなり古い。

天宗寺はちょっと分かりにくい場所にあるので近くまで行ったら近所の人に聞くのが無難。

本堂横の地蔵堂に地蔵の渡しにあった 「渡し場地蔵」(左) が鎮座。 渡し場には地蔵尊が2体あったが もう一体は瑞雲寺に安置。

境内右手の木陰にひっそりと建っている石塔は「芭蕉句碑」(右)。
   うき我を さひしからせよ かんこ鳥  芭蕉     芭蕉48歳の句。

街道に戻り数分歩くと生垣に挟まれた狭い道に入るが「この道が中々風情ある」(左)。すぐに右へ曲がって県道12号(上麻生線)のバス通りに合流してしまうのが残念。
合流点にあったのは「庚申塔祠」(右)。3基の庚申塔と石仏が鎮座。

この辺りは「上サ」という変わった地名だが次のような説がある。花山天皇(第65代 在位984~986)が八幡神社に参拝したとき ここに立ち寄ったことから「花山」が「上山」となり、「上サ」に変化したという。

道路を挟んだ向こう側の石碑は「川和里句碑」(左)。
天保3年(1832)に建立されたようで刻まれている句は  濡るとも そっと通れよ 露の中 

バス通りを100mほど南に歩くと道路際に「石塔が3基」(右)。
左から十三夜塔、庚申塔、地神塔で、地神塔は道標になっている。

川和里句碑まで戻りその先へ進みたいのだが旧道は消滅状態。

近い道として選んだのが「手斧橋」(左)の手前を右に曲がり川沿いの坂道を上っていく住宅地の中の道。川和高校北側交差点までかれこれ20分の上り坂。

交差点を左に曲がり次の田辺交差点を右に曲がっていくが この辺りは港北ニュータウンの中、旧道は消滅状態。荏田高校横の「荏田坂」(右)から旧道が復活し池尻橋を渡っていく。

池尻橋を渡り三叉路を左に入って行くと その先は「尾根筋」(左)の道。遥か彼方まで見通せて気分爽快。

次の三叉路を右に入るとほどなく下り坂となるが坂の途中から階段を降り回り込むと「真福寺」(右)。
本尊の千手観音立像は県重要文化財、客仏の釈迦如来立像は鎌倉時代の作で国重要文化財。残念ながら拝観はできない。

山門の下に庚申塔と3体の地蔵が鎮座。

真福寺辺りも旧道が消滅。ちょっと回り道して大山街道(矢倉沢往還)の荏田下宿に入ると「大山街道の立派な案内板」(左)が。

この先は二子の渡しまで大山街道と鎌倉街道が重なっている。

荏田宿の外れにある 「庚申塔の祠」(右) に納められている「庚申塔」(右)は寛政5年(1798)に荏田村下宿の婦人達によって建立されたもの。

早渕川に架かる鍛冶橋を渡ってしばらく歩くと「不動の滝」(左)と呼ばれる水場がある。今は竹樋から僅かな水が流れ落ちるだけだが、かつては滝だったのだろう。霊泉の滝 と書かれた説明板によると「雨の降らない時に ここで雨乞いすると必ず降りました」とある。霊験あらたかな滝のようだ。

不動の滝の後ろ、山の上に「老馬鍛冶山不動」(右)が鎮座。今から300年ほど前、大久保家の守り本尊として祀られた不動明王。

県道102号と交わる手前辺りを「牢場谷戸」(左)と呼んでいた。一説によると この辺りに牢屋があり県道向う側の坂上に磔場があったという。その坂を「血流れ坂」(右)と呼んでいた。処刑された罪人の血が坂道を流れ下ったのだとか。

しかし少なくとも江戸時代にこの地域に牢場や刑場があったという記録は無い。またそれ以前の記録にも見当たらない。

血流れ坂に続く うとう坂 を上ると「旧立場の皆川園」(左)前に出る。この辺りは標高60mほどの峠道。今は街道沿いに家が建ってしまったが かつては素晴らしい景色が眺められたのだろう。

その先の皆川園の中を通る道は僅かな区間だが昔のままの「旧道」(右)。江戸時代から変わらないと思うと嬉しいね~
この先は大規模宅地開発の影響で旧道が全く消滅。

住宅地の中の坂道を下っていくと国道246号と交差する手前に馬頭観音と説明碑があったのだが残念ながら撤去され「更地」(左)に。矢倉沢往還(大山街道)を歩いたとき(平成25年7月)にはあったのだがいつ頃撤去してしまったのだろうか。

国道を横断し右に曲がると「阿弥陀堂」(右)に元禄元年(1688)建立の阿弥陀如来立像と小さな地蔵尊像が。
そのすぐ先を左に曲がると旧道が復活。

その旧道はうねうねと曲がる「八幡坂」(左)という上り坂。坂の途中に八幡神社があったそうだが、今は無い。坂を上りきると田園都市線の鷺沼駅前。

その先の旧道はハッキリしないが住宅地の中を通って小台公園脇から長い長い「小台坂」(右)を下っていくと宮前平駅前に出る。

駅前を通り過ぎると神社の参道階段があるので上ってみることに。

階段の途中に正徳4年(1714)建立の「小台庚申塔」(左)が祀られている。3猿の上に青面金剛という正統派庚申塔。

階段を上ると「小台八幡神社と稲荷神社」(右)が。 創建年代は不詳だが古くから馬絹と土橋の共有地に鎮座していたという。平成7年(1995)に再建された社殿は優雅な唐破風の上に千鳥破風という なかなか美しい造りだ。

街道に戻るとその先は上りの「八幡坂」(左)。

上りきると一旦下り坂になるが再び上りの「庚申坂」(右)。その昔、この坂の近くに庚申堂があり大山参りの旅人は庚申堂に立寄って旅の安全を祈ったという。

庚申坂を上りきったら5~6分歩いてちょっと寄り道を。

向かった先は「宮崎大塚古墳」(左)。高さ4mほどの方墳だが説明板が無いため詳しいことは分からない。 古墳の上に馬絹大塚供養塔と刻まれた立派な石碑があるが これも詳細は不明。

街道に戻り国道246号と交わる梶ヶ谷交差点の歩道橋を渡り4~5分、祠の中に「道標を兼ねた庚申塔」(右)がある。側面に刻まれた文字は「右 大山道 左 や**」と。
庚申堂脇の道路際にある大正から昭和初期頃に造られたと思われる道標には「西荏田方面 東二子橋方面」。

4~5分歩いた先の丁字路際の建物は「笹の原子育地蔵堂」(左)。
西国百巡礼した夫婦に子供が授かったお礼に建てた地蔵だと伝えられ 今も地元の住民によって大切に護られている。
御堂脇には昭和19年(1944)の久本空襲で死亡した人を弔う地蔵や秩父・西国・坂東供養塔も。

この先の下り坂を「ねもじり坂」(右)と呼ぶが、説明板によると東京へ野菜を運び帰りに下肥などを積んでくる牛車・荷車などにとっては別名 「はらへり坂」 とも呼ばれた難所であったそうだ。

ねもじり坂を下ったところで今日の街道歩きは終わり。次回は大山街道溝口宿を通って二子の渡しまで。 JR溝口駅から帰路に。

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