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鎌倉街道中道

①鎌倉から柏尾    ②柏尾から中山  ③中山から溝口   溝口から二子の渡し   二子橋から渋谷   渋谷から抜弁天(新宿余丁町)   抜弁天から東池袋  ⑥東池袋から川口宿

溝口(みぞのくち)から二子の渡し跡まで 街道地図


鎌倉街道中道の旅 第4回目はJR南武線溝の口駅裏から。
出発するとすぐに旧大山街道の 二子・溝口宿 に入り二子橋を渡っていく。その先は旧大山街道と
分かれ上野毛通り、目黒通りを経て目黒区と世田谷区の区境いの道を歩き、渋谷川に架かる並木橋
まで歩いたがこのページでは二子・溝口宿から 二子の渡し跡までを記した。
二子・溝口宿には江戸時代から続く老舗の商店が何軒か見られる。また小説家・岡本かの子や陶芸家の
人間国宝・濱田庄司の出身地でもあることからゆかりの地を訪ねることも。

 平成29年1月17日

ねもじり坂を下って右へ曲がり道なりに進むと道路際に「片町の庚申塔」(左)が祠の中に。文化3年(1806)建立のもので道標を兼ねており「東 江戸道 西 大山道」、 背面に「南 加奈川道」とある。

その先の石塔は人間国宝の陶芸家「濱田庄司誕生地碑」(右)。
ここは母の実家である大田家があった場所で濱田庄司はここで生まれている。碑文の意味は「陶匠は跡を留めず」。

JR南武線の踏切を渡り数分、栄橋交差点にあったのは「さかえ橋親柱」(左)。

傍らの説明碑によると、この場所は溝口村と作延村の境だったことから境橋と呼ばれていたが明治21年(1888)の地誌には栄橋と記載されているという。

その隣の「大山街道の案内板」(右)を読むと二子・溝口宿は見どころが多そうだ。

栄橋交差点を渡り路地を入った奥の「宗隆寺」(左)は人間国宝である陶芸家・濱田庄司の菩提寺。
栃木県益子に窯を開き創作活動を続けた濱田庄司であったが本籍は溝口に置いたままで 没後の本葬を行ったのは宗隆寺。

山門脇にある「濱田庄司の碑」(右)に、
   昨日在庵 今日不在 明日他行 濱田庄司  
      「明日はどこかに行ってます」  いいですね~

本堂の前にあったのは「芭蕉句碑」(左)。
  世を旅に 代かく小田の 行きもとり 芭蕉翁
この句碑は灰吹屋薬局2代目・二兵衛によって文政12年(1729)に建立されたもの。

本堂裏手の墓地中程に「濱田家の墓」(右)があり濱田庄司はここに眠っている。前回訪れたときもそうだったが 花立の花は直前に活けられたのではと思うほどみずみずしい。

宗隆寺の数軒隣が「溝口神社」(左)。 江戸時代までは溝口村の総鎮守・赤城大明神として親しまれていたが明治維新の神仏分離令で宗隆寺から離れ溝口神社と改称。

街道に戻り数分、「稲毛屋金物店」(右)は江戸時代の天保年間(1830~44)に創業。 当初は薪や炭などを扱い江戸の大名屋敷にも納めていたという。幕末頃から金物を扱うようになった。

金物店先の「大石橋」(左)は親柱に常夜灯が乗った立派な橋。その昔は大きな石が2枚並べられた石橋だった。
下を流れる川は「2ケ領用水」(右)。徳川家康の命を受けた小泉次太夫が慶長2年(1597)から14年の歳月をかけて完成させた農業用水で稲毛領と川崎領の二ケ領を潤し新田開発に大きく貢献。

大石橋を渡った左側に問屋場跡の説明板が建てられている。説明板によると名主・丸屋七右衛門は代々問屋役として宿駅を取り仕切っていたが煙草や麦などの卸問屋業も大繁盛だったという。

2ケ領用水のちょっと先に「ANDY GARDEN」のロゴが入った洋菓子店があるが ここは「濱田庄司が幼少期を過ごした場所」(左)。 父方の実家である大和屋であったが現在は洋菓子店。

その隣は「大山街道ふるさと館」(右)。大山街道にまつわる資料が展示されており覗いてみたい資料館だ。
資料館前に高幡不動尊道道標が移設されている。府中街道と大山街道の交差点に設置されていたもので文政12年(1829)の建立。 刻まれている文字は「是より北高幡不動尊道南川崎道 東青山道 西大山道」。

数分先の見世蔵は「旧灰吹屋薬局」(左)。この建物は明治時代に建てられ昭和35年(1960)まで店舗として使われていた。  明和2年(1765)に東京四谷にあった灰吹屋から暖簾分けしてもらいこの地で創業したというから250年続く薬屋さん。現在も隣の店舗で営業を続けている。

府中街道との交差点際のビルは「秤の田中屋」(右)。こちらは宝暦10年(1780)創業という。江戸幕府から度量衡販売の免許を交付されたことから計量を家業とし「はかりの田中屋」として親しまれていた。

府中街道を横断した数分先の蔵造りの店舗は江戸時代から続く老舗の「田中屋呉服店」(左)。明治44年(1911)に建てられた建物は釘を全く使わないほぞ組工法で組み上げてある。

その先の溝口緑地入口に「国木田独歩碑」(右)が。明治30年(1897)、溝口を訪れた国木田独歩は亀谷旅館に一泊。
明治文壇に不動の地位を築いた作品「忘れ得ぬ人々」の冒頭が刻まれている。
多摩川二子の渡しをわたって少しばかり行くと溝口という宿場がある。その中ほどに亀屋という旅人宿がある。・・」

5~6分歩いた先の公園入口に「大貫家の人々」と記された案内板があるが ここは「岡本かの子の実家跡」(左)。
かの子は豪商・大貫家の長女として東京青山の別邸で生まれたが腺病質であったことから幼少期は二子の本宅で育てられていた。

対面の光明寺は大貫家の菩提寺でかの子の兄「大貫雪之助の墓碑」(右)がある。 新思潮の創刊にあたり谷崎潤一郎らと同人として活躍したが24歳という若さで急逝。

街道に戻り4~5分歩くと道路際に鳥居が立っているが この奥は「二子神社」(左)。寛永18年(1641)創建とされる二子村の村社。  渡し舟の時代は参拝者も多かったのだろうが今はひっそり。

境内右手の真っ白なモニュメントは「岡本かの子文学碑」(右)。 二子の地で生まれ二子をこよなく愛した かの子 の為に息子の岡本太郎がデザイン。台座は丹下健三氏の設計。代表作「老妙妓」の末尾に掲げられた歌の歌碑が台座下にある。
      としとしにわが悲しみは深くして いよいよ華やぐいのちなりけり

多摩川の土手に上がると「二子の渡し跡付近」(左)が一望。
二子村が矢倉沢往還の継立場となったのが寛文7年(1669)、その時から二子神社前と対岸の兵庫島辺りまでの渡しを二子村が請け負っていた。

河川敷まで下りると「二子の渡し碑」(右)が建てられている。この碑は石碑ではなくステンレス碑。
時代とともに碑の素材も変わっていくね~

街道に戻り田園都市線のガード下まで歩くと「二子橋旧親柱」(左)が保存展示されている。
旧二子橋の完成は大正14年(1925)。昭和52年(1977)に大改修が行われ旧二子橋親柱の使命が終わり現在地へ。
旧双子橋架橋までは舟で多摩川を渡っていたが この時代の渡し場はもう少し下流側であった。

「二子橋」(右)を渡ると東京都。この先は上野毛通り、目黒通りを通って渋谷まで歩く。
 

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