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鎌倉街道中道

①鎌倉から柏尾    ②柏尾から中山  ③中山から溝口   溝口から二子の渡し   二子橋から渋谷   渋谷から抜弁天(新宿余丁町)   抜弁天から東池袋  ⑥東池袋から川口宿

渋谷から抜弁天(新宿余丁町)まで 街道地図

鎌倉街道中道、5回目の旅は渋谷から池袋まで。
渋谷の並木橋を出発したら、青山、千駄ヶ谷を通って新宿御苑に入る。その先は新宿一丁目から真っ直ぐ北上して
戸山公園、西早稲田を通り、面影橋を渡って雑司ヶ谷から東池袋までのコース。途中、何カ所か旧道が消滅しており
迂回を余儀なくされるが迂回路も結構見どころがありそれなりに楽しめる。
5回目の前半は渋谷の並木橋を出発し新宿御苑を横断して新宿余丁町の抜弁天厳島神社までを記した。

 平成17年1月27日

渋谷川に架かる「並木橋」(左)を渡り明治通りの並木橋交差点を横断すると上り坂となるがこの坂は「八幡坂」(右)。
坂の途中に八幡宮があることから八幡坂と呼んでいるが先ほど通ってきた細い道の延長で中世の鎌倉道。

この先は六本木通り、青山通りを横断して千駄ヶ谷に入り新宿御苑の中を通って新宿へ抜けるが青山通りから先は消滅。

八幡坂途中にある神社が「金王八幡宮」(左)。 歴史は古く、寛治6年(1092)に渋谷氏の祖、河崎基家が創建。重家の代に堀川天皇から渋谷の姓を賜ったが、これが渋谷の地名の発祥と云われている。社殿は 二代将軍秀忠の次男竹千代(家康の幼名と同)が三代将軍(家光)に決定した事のお礼として春日局の寄進で建てられたもの。

社殿右脇の石碑は文化14年(1817)に建立された「芭蕉句碑」(右)。
    志ばらくハ 花のうえなる 月夜かな  はせを

八幡宮の隣に朱鮮やかな鳥居が見えるがここは豊栄稲荷神社

境内に13基ほどの「庚申塔」(左)が並んでいる。元々は村や町中に建てられていたのだが都市化が進み明治末から大正に掛けて順次集められたもの。造られたのは貞享・延宝・元禄の頃。

八幡坂に戻り六本木通りを横断して青山通りまで来ると道の向う側に大阪万博の「太陽の塔のようなオブジェ」(右)が。台座の銘を見ると 「こどもの樹 岡本太郎」 とある。
二子の渡し跡で岡本太郎のオブジェを見たが ここにも岡本太郎のオブジェがあったとは。

鎌倉街道の旧道はこの先から消滅状態。しばらく青山通りを歩き明治神宮表参道に入ると旧道が復活。

表参道に入ると、ちょっと奥まった所に「秋葉神社」(左)がひっそりと鎮座。文政10年(1827)の創立と伝えられ、昔は青山善光寺の境内鎮守として祀られていた。

神社脇の路地を入った先が「青山善光寺」(右)。 慶長6年(1601)、徳川家によって信州善光寺の別院として谷中に設けられたのがスタート。火災で焼失し現在地へ移転。

表参道から旧道に入って10分ほど歩いた所にあったのは「青山熊野神社」(左)。
当神社は紀州徳川家の江戸屋敷内に奉斎されたが町民の要請により正保元年(1644)に現在地へ遷座し青山総鎮守に。 当初は熊野大権現と称していたが神仏分離令により青山熊野神社と改称。

熊野神社から先の緩い下り坂を「勢揃坂」(右)という。道路際の説明板に「後三年の役(永保3年1083)で八幡太郎義家が奥州征伐に向かうとき ここで軍勢を揃えて出陣していった・・・・」とある。

勢揃坂の途中にある「龍巌寺」(左)には八幡太郎義家が腰掛けたと伝わる腰掛石や芭蕉句碑があるということだが木戸に「檀信徒以外の出入りをお断りします」。中に入るのはちょっと遠慮。

勢揃坂を下るとその先の旧道は消滅。慈光寺脇を左に迂回していくことに。
迂回路の途中に「榎稲荷」(右)という神社がある。鳥居脇の石柱に「江戸名所・お萬榎」と気になる文字が。家康の側室お萬が霊木の榎を信仰したことから お萬の榎 と呼ばれるようになったとか。

すぐ先の「鳩森八幡神社」(左)は千年以上の歴史を持つという古社。貞観2年(860)、慈覚大師(円仁)が関東巡錫の折りに応神天皇・神功皇后の尊像を添えて正八幡宮を勧請したのが始まりとか。江戸名所図会に「その昔 この地に瑞雲現れ白雲降り 白鳩多数飛び去った。その霊瑞により小さな祠を造り鳩森と名付けた」とある。

境内の一角にある「富士塚」(右)は寛政元年(1789)築造。都内に富士塚は多いが頂上まで登れて頂上には奥宮まであるという本格派は少ない。祀られているのは木花咲邪姫という美女神。

消滅した鎌倉街道の旧道ルートだが、芳賀善次郎氏によると新宿御苑を横切っていたという。ならば これから新宿御苑へ。千駄ヶ谷門から苑内に入ると季節外れのせいか人の姿はまばら。

新宿御苑は江戸時代に信州高遠藩 内藤家の下屋敷があった場所。明治39年(1906)に皇室の庭園として誕生し、戦後、一般開放。ゆっくり散策したいのだが旅の途中、のんびりも出来ない。

池泉回遊式の 「日本庭園」(左)は古くは鴨場として作られたが昭和の初めに日本庭園に改装。
池の向うに見えるのは「旧御涼亭」(右)。この建物は昭和天皇が皇太子であったとき、ご成婚記念として台湾在住邦人の有志から贈られたもの。昭和2年(1927)の創建。

新宿門を出たら散策路を右へ進み新宿一丁目信号前まで来ると旧鎌倉街道が復活。

旧鎌倉街道に入り新宿一丁目西信号を渡ったら「太宗寺」(左)に寄り道を。
慶長元年(1596)ごろ僧太宗が開いた草庵が前身とされ高遠藩・内藤家の信望厚く、内藤家の菩提寺となっていた。

門を入った右側に江戸六地蔵の一つ「銅像地蔵菩薩坐像」(左)が鎮座。 江戸の出入り口六ケ所に造立された地蔵の一つで甲州街道沿いに三番目に造立されたもの。


その奥に見える建物は「閻魔堂」(左)。納められているのは文化11年(1814)に安置された閻魔大王像と明治3年(1870)製作と伝えられる奪衣婆像。奪衣婆は金網に遮られてカメラ映りが悪い。

閻魔堂対面の「不動堂」(右)に安置されているのは三日月不動像。
三日月不動は江戸の遥か西、高尾山薬王院に奉納するはずであったが休息で立ち寄った太宗寺境内で盤石のごとく動かなくなってしまったため不動堂を建立し安置したのだという。

不動堂横に「塩かけ地蔵」(左)なる変わったお地蔵さんが。
願い事をするとき塩を少しもらい、その願いが叶ったらお礼として倍の塩を奉納するのだそうだ。

不動堂裏手の墓地に「信州高遠藩内藤家墓所」(右)がある。
中央の宝篋印塔が五代正勝、右側が十三代頼直、左側が内藤家累代の墓塔。

街道に戻り新宿一丁目北交差点まで来たら左へ曲がって正受院に寄り道を。
門を入った右側の堂内に「綿のおばば」と呼ばれる「奪衣婆像」(左)が。幕末の頃、咳止めに霊験ありと流行り、咳止めお礼に綿を奉納。この像は小野篁(たかむら)の作という伝承がある。

鐘楼に下がっている「梵鐘」(右)は宝永8年(1711)に鋳造されたもの。この梵鐘も例に漏れず先の戦争で金属供出の憂き目にあったが、なんと、戦後、アメリカのアイオワ州立大学にあるのが発見され返還されたという。

隣の成覚寺に「恋川春町の墓」(左)がある。江戸時代中頃に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者で、世相・人情を風刺した「金々先生栄花夢」を出版し黄表紙というジャンルを確立した人物だ。

隣の「旭地蔵」(左)には18名の戒名が刻まれているがその内七組の男女はならぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達。
本堂前の「合埋碑」(右)と刻まれた碑は内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うために造立されたもの。彼女達が年期中に死ぬと投げ込むように惣墓に葬られたという。

街道に戻り10分ほど歩いた天神小学校先の神社は「西向き天神社」(左)。 明恵上人が安貞2年(1228)に勧請したとされ、社殿が大宰府の方角である西向きに造られていることから西向き天神。
徳川家光鷹狩りの際、黄金の棗(なつめ)を下賜されたことから 棗(なつめ)の天神 ともいわれている。

広い境内の外れにあったのは天保13年(1842)築造の「富士塚」(右)。児童公園側から見ると高さはあまり感じられないが、街道側から見ると結構な高さ。

街道に戻らず境内をそのまま進むと西向き天神の別当寺であった大聖院の境内。

境内入口に 「山吹坂」(左) と呼ばれる階段がある。 かつては味わいある坂道だったのだろう。云われは、太田道灌に山吹の一枝を捧げた女性・紅皿の墓が近くにあることにちなみこう呼ばれるように。

その「紅皿の墓」(右)が大聖院の駐車場脇にある。太田道灌は紅皿から渡された山吹の意味を後に知り自らの歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友に。紅皿は死後この地に葬られたという。

ほどなく抜弁天通りにぶつかるが、その先は消滅。 弁天通りを右へ進むと通り名になった「抜弁天厳島神社」(左下)。

後三年の役で奥州へ向かう八幡太郎義家がこの地に宿営し遠く安芸に鎮座する厳島神社に戦勝祈願。奥州平定の帰路、戦勝お礼にこの地に厳島神社を勧請したと伝えられる。
義家が苦難を切り抜けたのは弁天様のご加護、そして境内参道が南北に通り抜けできることから いつしか抜弁天と。

抜弁天通りを横断し20mほど先 左側の狭い道に入り、総務省統計局の横を通って行くが この辺りの消滅した旧道のルートが定かでない。

渋谷の並木橋を出発し、新宿余丁町まで来たが、この先は西早稲田まで行くと旧道が復活する。

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