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 箕作村                             街道地図
      みつくりむら
下田街道最後の人馬継立場である箕作(みつくり)村は旅人の休憩地でもあったが大きな施設はなかった。
そのため公用の旅人などは日枝神社や龍巣院などを休憩場所として利用していた。箕作の集落に入ると
僅かな区間だが旧街道らしい風景が見られる。

平成26年10月8日
芽原野村の先しばらくは国道414号の単調な歩きが続く。バス停芽原野口を過ぎたら右の旧道に入り西峰橋を渡って あずさ山の家 の前を通り、目金橋を渡って再び国道414号に合流。


国道を20分ほど歩くと左手の奥まった場所に御堂が。ちょっと荒れた感じだが地元の人の話では閻魔像が祀られているという。ということは「閻魔堂?」(左)。

さらに10分ほど歩いて到着した場所は公用の旅人の休憩地としても利用されていた「日枝神社」(右)。

日枝神社の先に僅かな区間だが旧道が残っている。旧道を出て5~6分歩き箕作交差点まで来たらちょっと寄り道を。
交差点を右に曲がり深根橋を渡ると左後方に「深根城址」(左)が見える。 城主であった関戸吉信は北条早雲に攻められ河津七滝の近くまで逃げたがついに自刃。その場所は梨元村のページに記してります。

橋を渡って1~2分、歩道際に「茶々丸之墓」(左)と刻まれた石標が。民家脇の道を奥まで入ったがついに見つからず。地元の人に聞くと、かなり奥だよという。茶々丸の墓は韮山の願成就院にもあります。

箕作交差点まで戻るとその先は人馬継立が行われた「箕作集落」(左)。少しだが街道時代の面影が残る。
箕作は旅人の休憩地でもあったが大きな施設が無かったため公用の旅人などは集落の中ほどにある龍巣院が休憩地として使われたという。

山門の手前に冒頭の六地蔵が鎮座しているが その隣の石塔は宝永元年(1704)建立とされる「巡拝塔」(右)。 表面の文字はほとんど読めない。

箕作集落を抜け4~5分歩くと街道左の崖際に小さな滝があるが、その上に「いんぼ地蔵」(左)が鎮座。いぼとり地蔵なんだそうだが やさしそうなお顔になんとも言えず癒されます。

いんぼ地蔵から7~8分、常夜灯のある階段は日本三大薬師の一つと言われる「米山薬師参道」(左)。 僧行基によって天平5年(733)に開基。秘仏の薬師如来は行基の作だという。
階段を上ると拝堂(無住)があるが、薬師堂はそこから20分ほど登った山頂に。この20分がキツイ!

米山薬師から戻るとその先も街道は稲生沢(いなおさわ)川沿いに下っていく。
志戸橋を渡ると川内集落。巡拝塔百地蔵六地蔵を眺めながら歩くと国道が右にUターンするが、ここにも旧道が2か所、少しの区間だが残っている。

旧道から国道に出たら ちょっと戻ると土屋氏宅の庭内に「秋葉常夜灯」(左)が見える。静岡県歴史の道・下田街道によると文政12年(1829)、土屋氏の祖先が秋葉山参詣を記念して建立したものだという。

旧道を出た所に「六地蔵」(右)が鎮座しているが、もう一体(右側)追加されているのが面白い。
その先で再び旧道に入りすぐに国道と合流するが ここにも巡拝塔が立っている。この辺りは巡拝塔がとても多い地域だ。

右にUターンした国道は今度は稲生沢川に沿って左にUターン。その先の堤防上に御堂が見えるがここは お吉が淵 と呼ばれる場所。堤防上に「唐人お吉投身之址碑」(左)が建てられている。お吉が投身自殺したのは明治23年(1890)、享年50歳であった。

そのすぐ先の堤防上に「お吉地蔵」(右)が鎮座。お吉の大の同情者であった新渡戸稲造博士の篤志によって昭和8年(1933)に建立されたもの。

旧下田街道はお吉が淵の先、お吉ケ渕交差点(こちらは淵ではなく渕)で国道414号と別れ真っ直ぐ進んでいく。蓮台寺を過ぎると下田が近い。

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