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湯ヶ島村 街道地図 |
湯ケ島村は室町時代から金の採掘が行われていたが、その後温泉も注目されるようになり、
14世紀末ごろの書物に「お湯がいたる所に湧いている」と紹介されているほど歴史の古い温泉で
湯治場として賑わっていた。人馬の往来が頻繁になる江戸時代末頃にはしっかりした人馬継立が
行われている。
明治に入ると多くの文人が湯ヶ島温泉を訪れるようになるが、川端康成も学生時代に訪れて気に入り
その後何回も訪れてかの有名な伊豆の踊子を執筆。また湯ヶ島で少年時代を過ごした井上靖はその
時の思い出を「 しろばんば」 という小説にしている。 |
狩野川添いに上ってきた旧下田街道は市山集落を通り 国道に合流した先で簀子橋を渡るといよいよ湯ヶ島に入っていく。 |
橋を渡って右にカーブしながら緩い坂を上ると広場があるが ここはかつて大仁まで運行していた「馬車の駐車場」(左)であった。当時は いつも見送りや出迎えの人で賑わっていたという。
もう少し先が少年時代の井上靖(洪作少年)が通った旧湯ヶ島小学校の跡地で今は湯ヶ島郵便局の局舎。
「旧下田街道」(右)は馬車駐車場の対面から細い道を入っていく。 その入口に洪作少年が歩いた道と書かれたしろばんばの里の案内図が掲げられているのがうれしい。 |
ちょっと歩くと しろばんば文学碑の公園があるが ここは「井上家旧居跡」(左)。建物は 道の駅天城越え の中に移築。
公園の奥に見えるのは「しろばんばの文学碑」(右)。
その頃、と言っても大正四、五年のことで、今から四十数年前のことだが、夕方になると、決まって村の子供たちは口々に "しろばんば"
"しろばんば"と叫びながら、家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったり・・・・・
洪作少年は転勤の多かった両親と別れ母の故郷・湯ヶ島でおぬい婆さんと少年時代を過ごしている。 |
旧居跡のすぐ先、四辻の向うに見えるなまこ壁の家は洪作少年の母の実家である「井上本家」(左)。洪作少年が淡い恋心を抱いた母の妹の「さき子ねえちゃん」が住んでいた。
その手前の浅田金物店は洪作少年と仲が良かった幸男の家であった。また四辻の向こう左側は御料局跡。
この四辻を左に曲がった先の民家の庭に「若山牧水歌碑」(右)が据えられており牧水らしい歌が。
天城嶺の千年の老樹根をひたす真清水汲みてかもすこの御酒 牧水 |
牧水歌碑のある御宅の反対側に短い上り坂があるが、ここは湯ヶ島小学校(現在は廃校)の裏門。ちょっと寄り道を。 |
裏門を入って右に曲がると見えたのが「井上靖詩碑」(左)。
地球上で一番清らかな広場。北に向かって整列すると遠くに富士が見える。廻れ右すると天城が見える。富士は父、天城は母。父と母が見ている校庭でボールを投げる。誰よりも高く美しく真っ直ぐに天まで届けとボールを投げる。 井上靖
校庭を横切って正門側に回ると「しろばんばの像」(右)と題された洪作少年とおぬい婆さんの像が。
元の場所に戻らず小学校前の坂道を下ると辻の向うにハスが咲いているではないか。あまりに綺麗なので思わず1枚。
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四辻を東西に走る道が旧下田街道であるが その辻の角にある「弘道寺」(左)は安政4年(1857)、米国総領事のタウンゼント・ハリス一行が江戸に向かう途中に一泊した寺。 寺では門前に掲げた「亜米理加使節泊」と書いた表札やハリスが使用した椅子を保存。
階段の途中に「ハリス宿泊記念碑」(右)が建てられているが そこにはハリスの日本滞在記の一節「初めて富士山を見た時の感銘」が刻まれている。・・・・・その荘厳な孤高の姿は私が1855年1月に見たヒマラヤ山脈の有名なドヴァルギリよりも目ざましいとさえ思われた。・・・・・ |
弘道寺の数分先、長い参道の奥は「天城神社」(左)。洪作少年達の遊び場でもあっただろうが、洪作少年が淡い恋心を抱いた さき子ねえちゃんが中川先生 とデートを重ねた場所でもあった。
この神社の狛犬(冒頭の写真)、どこかで見たようなと思ったら修善寺入口の八幡神社で見たブサイクな狛犬と同一の作者だった。ところで狛犬は通常は向き合っているものだが この狛犬は2匹とも同じ方向を向いている。その方向は天城山。諸説あるが当時多かった山犬に睨みを効かせているのではないかと。 |
街道に戻って数分、国道と交差する左手に「賽の神と庚申塔」(左)が祀られている。
旧下田街道は国道を横切って階段を下っていくのだが湯ヶ島に来たら 踊り子 を忘れてはいけない。国道をバス停「湯ヶ島温泉口」まで戻り寄り道を。
左の県道に入ると「湯道」(右)と記された案内板がある。洪作少年や地元の人達が共同浴場へ通った道。今は整備され快適な遊歩道であるが当日は残念ながら途中が工事中のため通行止め。 |
遊歩道がダメなら県道を と車道を歩いていたら三十三観音霊場の案内標柱が。階段を上ると「若山牧水歌碑」(右)があったのです。
五首刻まれているが、その一首。
うす紅に 葉はいち早くもえいでて さかむとすなり山ざくら花 牧水 刻まれた文字は牧水の自筆。
車道に戻り坂を下っていくとマンホールの蓋に「川島青年と踊り子」(右)が描かれているではないか。いよいよ踊り子との付き合いが始まりそうだ。
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路地を入った奥の趣きある旅館は川端康成が学生時代に泊り その後 常宿にして伊豆の踊子を執筆した「湯本館」(左)。
伊豆の踊子を執筆した部屋が残されているそうだが玄関も往時の雰囲気が残る。
湯本館の隣は洪作少年や村人たちが湯道を通って浸かりにきた共同浴場の「河鹿の湯」(右)。
今でも結構人気があり遠くから来る人もいるそうだ。だが今日はなんとも静か。水曜日が休館日でした。
だいぶ遠回りしてしまったが ついでに猫越川に架かる女橋、本谷川に架かる男橋を渡って下田街道の旧道へ戻ることに。 |
国道脇の階段下まで戻ったら下田街道の旅、再出発。「瑞祥橋」(下左)を渡り左へ曲がると本谷川沿いに浄蓮の滝まで天城遊歩道が整備されているが この道がほぼ旧下田街道。
「瑞祥橋」(下左)を渡ったら林の中の道を進んで ダム脇の階段を上り、・・・・・・木橋を渡って水恋鳥広場の中を抜け、・・・ 集落脇を通り |
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途中の水恋鳥広場は家族連れや若者で賑わっているが その一角に「与謝野晶子歌碑」(左)がひっそりと立っている。
伊豆の 奥天城の山を夜越えね さびしき事になりはてぬれば 与謝野晶子
集落脇を通ってさらに進むと岩尾ダムの手前に可愛らしい石仏が1基。痛みが激しいが建立は文政6年(1832)。 |
石仏先の岩尾ダムの巨大な擁壁が行く手を阻んでいる。ここはダム脇の階段を上って擁壁の向う側へ。その先はコンクリート舗装された細い道が続き 木橋を渡り、
林の中を進むと国道と交差するが ここはバス停「天城山荘」の前。遊歩道の要所に案内標識があるので道に迷うことは無い。 |
国道を横断し階段を上がると可愛らしい「馬頭観音」(左)が。この石仏は享和2年(1802)建立ということなので200年ほど前のもの。
その先の公園にあるモニュメントは「伊豆の踊子碑」(右)。
初めて映画化された時の監督・五所平之助氏の句が刻まれている。 踊り子といえば 朱の櫛 あまぎ秋 五所平之助
国道はこの先S字に山を上っていくが旧下田街道は国道を何回か横切って直線で上っていく。そのため上り坂がキツイ。
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400mほど歩くと天城遊歩道が終わり その先の旧下田街道は整備された踊子歩道となる。 ここまで来たら浄蓮の滝を見ずに先へは進めない。 |
天城遊歩道と踊り子歩道が交わった所から右へ下ると国道の向うの駐車場に「川島青年と踊り子像」(左)が天城山を見つめている。踊り子像の脇から長い階段を下ると日本の名瀑100選に選ばれた天城山中随一の名瀑「浄蓮の滝」(右)。
坂を下ったら今度は上らなければならない。これが結構つらい。 |
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