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原木村ばらきむら                     街道地図
原木村は狩野川の洪水被害を受けにくい自然環境で、かつ、伊豆東・西海岸に至る道が
分岐する交通の要衝であった。また下田街道の往来が盛んになると、三島・大仁の中間に
位置していたことや洪水被害を受けにくい土地であったことから人馬継立も行われるように
なり、物資輸送の拠点として大変賑わっていた。
原木村の先、韮山は源頼朝が配流された地。頼朝に係わる遺跡も多い。
街道からはちょっと遠いが、江川邸、蛭ケ島や韮山反射炉にも立ち寄よる予定。

 平成26年4月23日

大場橋を渡り30分ほど歩くと国道136号に合流。その先は最近架け替えられた蛇ケ橋。かつては長さ七間ほどの石橋であった。橋の袂に幕末頃建立と推定される「石仏・石塔」(左)が何基かある。この蛇ケ橋に次のような伝説が。
源頼朝が三嶋大社へ参詣の折り、大雨の増水で川を渡ることができず困っていると現れた蛇が橋となって頼朝を対岸に渡したという。

蛇ケ橋を渡り十数分、街道は「伊豆の国市」(右)に入った。大層な市名だが伊豆長岡町、韮山町、大仁町が合併してできた新しい市。

伊豆の国市に入ったら この先の原木駅東側にあったという「牛鍬大路」(左)を探しに寄り道を。
吾妻鏡によれば治承4年(1180)8月、源頼朝が伊豆国目代・山木兼隆を襲撃すべく通った道が牛鍬大路とされている。今は耕地整理が行われ かつての道を探すこはできなかったが この付近と思われる。

街道に戻り10分ほど歩いた先の街道際に祀られているのは「道祖神」(左)。幕末ごろの建立と判断されているが年代は不詳。今も花が手向けられ大切にされているのが嬉しい。

その先で右の路地を入り数分、成願寺墓地内に「餅売り姥の墓」(左)があり次のような言い伝えが。
姥は頼朝が三嶋大社へ100日参りをしていた時、毎朝、頼朝に餅を献上。後年、頼朝は「阿弥陀仏を拝み余生を送りたい」という姥の願いに、仏像を与え一宇を建立して願いを叶えたのだという。姥はわが願いが成ったと喜び成願寺に。

成願寺を出たら原木街道を南へ。数分で下田街道に合流するが ここに「道標」(右)と道祖神がある。道標は大正11年(1922)に建てられたもので刻まれている行き先は「右三島ニ至ル 左沼津ニ至ル」。

合流点の向う側に鳥居が見えるが ここは「荒木神社」(左)。 かつては鞍掛明神とも呼ばれていた。伊豆配流中の頼朝が 参拝するごとに鞍を神木に掛けていたので鞍掛明神と。

荒木神社から10分ほど歩いた先の街道際に鎮座するのは「八坂神社」(右)。由緒によると正長元年(1428)、大洪水のとき天王の御神体がこの地に漂着。これを拾い上げ奉祀。
街道に面した玉垣の中にも道祖神が鎮座。

 ここから平成26年5月19日

ここまで来たらちょっと遠いが是非寄り道したい場所がある。向かった先は重要文化財の江川邸。清和源氏の流れをくむという江川家は平安時代の末に大和国より来住し、
鎌倉幕府に仕えて土着。江戸時代には代々、幕府代官を務めていた。

江川邸に向かう途中にも「道祖神」(左)が1基。
矢倉沢往還では双体道祖神が大半であったが下田街道ではほとんどが賽の神とも呼ばれる丸彫り座姿の道祖神であった。

30分ほど歩いて到着した場所は「韮山郷土資料館」(右)。伊豆国に係わる石器・土器や民具の展示が主体の小さな資料館だが江川家に関する資料も多少だが展示。

資料館の隣が目的地の江川邸。 水路に沿って歩くと右奥に見えたのは元禄9年(1696)建築の「江川邸表門」(左)。この門を入ると江戸時代にタイムスリップだ。

受付へ行くと 受付の方が「栴檀(せんだん)が満開だから見て行って」という。門手前の右奥に栴檀の花がちょうど見ごろ。
表門を入ると「江川邸主屋」(右)が目の前に。日蓮上人をお迎えしたこともある主屋は室町時代(1336~1573)に建てられたという最上級の古建築。何回か修復されているが国の重要文化財。

裏に回ると幾つかの蔵があるが「西蔵」(左)は幕末ごろの建築で、正面が将棋の駒のような形をしていることから駒蔵とも呼ばれている。隣の2棟の米蔵は明治中ごろの建築。

「裏門」(右)は文政6年(1823)の建築だが門扉はそれよりずっと古く豊臣秀吉の軍勢に攻められたときの鉄砲玉の跡が残っている。裏門越しに見る富士山が素晴らしい。当地を訪れた老中・松平定信がこの景色に感嘆。御用絵師の谷文晁に絵を描かせたという。

江川邸の裏に「城池(しろいけ)(左)と呼ばれる農業用水用の溜池があるが この池はかつては韮山城の外堀で江戸時代は江川家の庭池でもあった。

その韮山城は北条早雲が築いた山城で、この城を拠点に伊豆を制し、やがて小田原城を奪い相模国へと乗り出していく。しかし早雲自身は88歳で没するまで韮山城を離れることはなかった。

池の右手から城跡に入り「主郭跡」(右)まで上ると その眺望が素晴らしい。眼下の田方平野から彼方の富士山まで一望。

韮山城を下りて街道に戻る途中、もう一か所寄り道を。

源頼朝が配流された場所が「蛭ケ小島」(左)。永暦元年(1160)、14歳でこの地に流された頼朝は治承4年(1180)、34歳の時に旗揚げ、やがて鎌倉幕府創設を成し遂げる。

蛭ケ小島に配流となった頼朝はこの地で20年間過ごしたが治承元年(1177)、伊豆国在地の豪族・北条時政の娘・政子と結婚。頼朝31歳、政子21歳であった。

街道に戻り次に向かった場所は「成福(じょうふく)寺」(左)。
鎌倉幕府第8代執権北条時宗の三男正宗が父時宗の死後、菩提を弔うために北条氏の故郷北条村に建立した北条氏菩提寺。

北条政子産湯の井戸を探して住宅地へ入ったところ、「尼将軍北条政子産湯之井戸」(右)と刻まれた石碑を見つけたのだが、なんと、側面に「五島慶太建立」と刻まれているではないか。
強盗慶太と異名をとった東急電鉄創始者の以外な一面を見せてくれた石碑であった。

石碑脇を住宅地の奥へ入った所にあったのが「北条政子産湯之井戸」(左)。 北条時政の長女として保元2年(1157)に誕生。その時の産湯の水をとったのがこの井戸と伝えられている。

政子産湯の井戸碑まで戻ると対面に広々とした場所があるが ここは「堀越御所跡」(右)と呼ばれる国指定史跡。
室町時代の後半、室町幕府に対抗する勢力を押さえるため鎌倉公方として足利政知が派遣されたが戦乱のため関東に入れず、ここ堀越の地に居館を構え身を落ち着けたのだとか。

次に向かったのは北条時政が源頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して文治5年(1189)に創建した「願成就院」(がんじょうじゅいん)(左)。山門を入った左手奥の墓地は「北条時政の墓」(右)。裏手の山際には堀越御所二代公方茶々丸の墓も。

伽藍は北条早雲の堀越御所攻めの戦火に巻き込まれ焼失するが幸いに大仏師運慶作の仏像五体が戦火を免れ国宝に指定されて大御堂に収められている。

願成就院は豊臣秀吉の小田原征伐の際も戦火に見舞われ全焼。 廃寺に近い状態となったが江戸時代の寛政元年(1789)、北条氏貞によって再建。この時建てられたのが現在の「茅葺の本堂」(左)。

大御堂の後ろにある宝物館で、窓越しだが「北条時政公像と北条政子地蔵尊」(右)が見られる。政子地蔵尊は慶派正統仏師による造像で県指定の文化財。

街道に戻って4~5分、古川橋の手前を右に50mほど入った奥に「唯念名号塔と道祖神」(左)及び供養塔が2基。今は国道から外れているが、ここは旧下田街道が通っていた道ではないだろうか。

古川橋を渡って7~8分、伊豆長岡駅の近くまで来たらちょっと寄り道を。右に曲がって数分、十字路際に真っ赤な鳥居が見えるが ここは「願満稲荷」(右)。 縷々説明されているが参詣する者は諸余の怨敵を退散せしめ一切の障りを払ってくれるのだそうだ。

街道に戻るとほどなく道路標識に 反射炉 の文字が。20分ほど歩くと土産店が並ぶ奥に見えたのは「韮山反射炉」(左)。
幕末の騒がしい時期、江戸湾のお台場に据え付ける大砲を作るために設けられた溶鉱炉で、実際に稼働した反射炉が現存するのは世界中でもここだけ。

展示場所入口に立つのは反射炉を建設した「江川英龍像」(右)。英龍は完成を見ることなく世を去ったが跡を継いだ息子の英敏が安政4年(1857)に完成させ28門の大砲を作りお台場に配備。

この先は もと来た道を戻り旧道の横山坂を通って次の人馬継立場・大仁村へ。


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