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大仁村                                  街道地図
大仁村は狩野川渡しの集落であったこと、また人馬継立場が置かれていたことなどで賑わっており
旅籠も4軒ほどあった。 明治以降は馬車・鉄道などの発達とともに道路も各幅され往時の面影は
少なくなってしまったが鄙びた街道の雰囲気は感じられる。
大仁の手前、韮山を過ぎると僅かな区間だが横山坂という山の中を通る土道の旧道が。今は切通しと
なり当時より緩い上り坂となってしまったが それでも当時の旅人の苦労を感じながら歩くことができる。

 平成26年5月19日
旧下田街道は韮山反射炉へ行く道の途中から右に曲がるのだが昔の面影残るこの辺りを南条の宿と呼んでいる。

ほどなく 「変則的三叉路」(左) に差し掛かるが 左に曲がる道が江戸時代の横山坂で大変な難所であった。そこで、明治8年(1875)に新道の横山坂を開削。以降、こちらが下田街道。今回の旅では江戸時代の道を歩くことに。

左に曲がって坂道を上るとすぐに観音堂があるが その隣に多数の「石仏や石塔」(右)が建てられている。ここは行き倒れた人々が埋葬された地と云われ その供養に石仏や石塔が建てられた。

石塔群からさらに50mほど歩いたら右に曲がっていくのだが入口が分かりにくい。民家(緑色の家)の庭先のような場所を通って山の方向に進むと そこが「旧下田街道の土道」(左)。居合わせた民家の住人によると昔は狭ま~い道だったが いつのまにか軽トラが通れるほどの広さになってしまった、のだとか。

江戸時代を偲びながら薄暗い切通しを上り その先を下って横山変電所を左に見ながら進むと再び上り坂。上り坂の途中にひっそりと立っているのは「唯念名号塔」(右)

アップダウンを繰り返したあと新道に合流して開けた場所に入ると川の向こうに見えるのは「長伝院」(左)。
大仁町教育委員会の説明板によると長伝院の辺りは白鳳時代(645~709)末に建立されたという大寺院の跡地(宗光寺廃寺跡)なのだそうだ。こんな片田舎に金堂・講堂などを持つ大寺院があったとは。

この先は伊豆箱根鉄道に沿って歩くのだが鳥居の奥に長~い階段が見えたので上ってみたのが「第六天神社」(右)。
なんと150段以上の階段を上るはめに。疲れた~。

この先は随應寺前を通り、伊豆箱根鉄道、国道136号を横断して住宅地の中へ。

国道を横断して数分、集会所前に何本かの石塔があるが ここは「六角堂跡」(左)。説明板によると俱舎・誠実・律・法相・三輪・華厳の六宗兼学の象徴として建てられた御堂なのだとか。 なんだか難しい。

街道は六角堂跡横の十字路を左に曲がるのだが ちょっと寄り道したいので右へ。
田んぼの中の道を5~6分歩いた先にあるのは「来朝塚」(右)。地元の人は経塚と呼んでいる。平安時代の中頃、来朝坊なる法師が全国行脚。その最後に伊豆国を廻り大供養を行ってこの塚を築いたという。

十字路まで戻ったらもう少し寄り道を。
5分ほど歩いた先の三叉路にあったのは「狩野川台風殉難者供養塔」(左)。昭和33年(1958)の狩野川台風では千人以上もの尊い命が失われたが ここ白山堂地区でも75人の犠牲者が出たという。

三叉路を真っ直ぐ入ると白山神社だが その境内に「徳本念仏碑と唯念名号塔」(右)が並んでいる。ほぼ同時代に仏教の教えを説いて全国を回った二人の上人の碑が並んでいるとは珍しい。

街道に戻る途中、大木が見えたので近寄ってみるとその下にあったのは「賽神社」(左)。下田街道では賽の神によく出会うが賽神社があったとは。

賽神社の対面にも「狩野川台風殉難死者慰霊碑」(右)がありました。この台風による被害の痛ましさがうかがえる。
ウィキペディアによると、死者・行方不明1,269名 住家の全・半壊16,743戸,、床上・床下浸水521,715戸、耕地被害89,236ha。想像を絶する被害の大きさだ。 

街道はこの先で再び国道136号・伊豆箱根鉄道を横断して田京駅前を通過していく。

ほどなく「広瀬神社」(左)に到着。創建年不詳なれど天平5年(733)の創建とも云われている古社。
社伝によると往時は金銀ちりばめた社殿に禰宜36人、供僧6坊、神領八町と隆盛を極めていたそうだが、豊臣秀吉の小田原攻めの際の兵火で社殿を焼失。現在の社殿は慶長元年(1596)の再建。

広瀬神社を出たら川を渡るのだが手前土手の上に安政3年(1856)建立の唯念名号塔が。深澤橋を渡ると「馬頭観音」(右)が祀られている。花が手向けられ大事にされているようだ。

十数分歩き西光寺先の十字路を左に入ると「庚申塔」(左)が3基。説明板に庚申信仰のことが詳しく説明されている。盛んだったのは江戸時代とあるが この庚申塔も寛政・万延ごろの建立。

ほどなく大仁の市街に入っていくが ここはかつての大仁村。
大仁郵便局は「名主杉村氏屋敷跡」(右)。嘉永7年(1854)4月、下田から江戸に護送途上の吉田松陰が杉村氏宅に宿泊。右の植え込みの中に松陰宿泊記念碑がひっそりと立っている。

5~6分歩いた先の菊池米店前にある大石は「芭蕉句碑」(左)。
     霧時雨 富士を見ぬ日ぞ おもしろき  芭蕉翁
三島出身の俳人弧山人が江戸屋で交流句会を開き、その記念に芭蕉が箱根富士見平で詠んだ句を刻み 建てたもの。

その「江戸屋跡」(右)が菊池米店から望月接骨院の辺り。名主杉村氏とともに旅人の接待に当たり本陣とも呼ばれていた。俳人弧山人が江戸屋で句会を開いたのは嘉永7年(1854)であった。

江戸屋跡の先で踏切を渡ると大仁橋が見えてくるが その袂にあるのは石地蔵や馬頭観音・道祖神などの「石仏群」(左)と大正4年(1915)建立の狩野川水死者供養塔。

石仏群後ろの小山は「水晶山」(右)。江戸時代に水晶が産出したことから水晶山と呼ばれている。標高70~80mの山で登山道もあり 頂上には展望台もあるそうだが 先を急ぐ旅なので。

大仁橋を渡ったら国道136号を横断して旧道へ。5~6分歩くと右手の民家の間に大仁金山の看板が見える。ここは江戸幕府の金山奉行・大久保長安によって採掘が行われた「瓜生野金山跡」(左)。 この金山は一旦閉鎖されるが昭和初期に大仁金山として再開。しかし狩野川台風の被害を受け昭和48年(1973)に閉山。

金山跡を右手に見た後さらに数分、昌徳院の参道に「唯念名号塔」(右)が、なんと2基もあるではないか。幕末の頃、狩野川渡船場に建てられた名号塔をここに移したのだとか。

旧道はほどなく国道に合流し狩野川沿いを南下。合流して10分ほど歩くと修善寺橋の袂に到着。
柵の中でひときわ目立つのは「将軍地蔵」(左)。鎌倉2代将軍頼家(頼朝の嫡男)は北条氏の政略で修禅寺に幽閉され ついに非業の死を。憐れんだ里人が冥福を祈って建立したのが将軍地蔵であった。

下田街道はこの先で左に曲がるのだが ちょっと寄り道を。 向かった先は相殿神として源頼家を祀る「八幡神社」(右)。ここの狛犬が面白い。宝暦13年(1763)建立ということだが、人呼んでブサイクな狛犬

ここまで来たら修禅寺(寺名は禅を、地名は善を使用)を無視するわけにはいくまい。 街道から外れており、ちょっと遠いのでバスで修禅寺へ。

バスを降りて向かった先は「日枝神社」(左)。弘法大師の建立と云われ江戸時代は修禅寺の鬼門を守る山王社であった。社殿左側に樹齢800年という杉の巨木がある。子宝の杉と呼ばれるこの大樹は根本が1本、途中から2本に分かれるがこの間を通ると子宝に恵まれるという。

参道途中に「信功院跡」(右)と表示された場所があるが ここは源範頼(源頼朝の弟)が幽閉された場所。建久5年(1194)、梶原景時の不意打ちに合い自害。今は庚申塔が1基、ひっそりと立っている。

日枝神社の隣が地名にもなった「修禅寺」(左)。大同2年(807)に弘法大師が創建したと伝えられる古刹。文久3年(1863)建設の山門が修復工事のため覆いの中であったことが残念。

修禅寺を出ると目の前の桂川に東屋が見えるがここは「独鈷の湯」(右)と呼ばれ、次のような伝説が。
弘法大師がこの地を訪れたとき、桂川で病み疲れた父の体を洗う少年を見つけ「川の中では冷たかろう」と手にした独鈷杵で岩を打ち霊泉を湧出させたと云う。その霊泉につかると不思議なことに十数年の固疾がたちまち平癒したのだった。

桂川を渡り坂道を上った先にあるのは「指月殿」(左)。伊豆最古の木造建築といわれる建物で、非業の死を遂げた鎌倉幕府2代将軍頼家の冥福を祈り母 北条政子が建立したもの。

堂内中央の本尊「釈迦如来坐像」(右)は鎌倉時代の作とされるが、ちょっと変わっている。何も持たないはずの釈迦像だが このお釈迦様は右手に蓮の花を持っているのだ。

指月殿の先に「源頼家の墓」(左)がある。18歳で鎌倉幕府2代将軍となった頼家であったが在位6年で政争に敗れ修禅寺に配流。 元久元年(1204)、祖父北条時政の手で入浴中に暗殺されたという。

頼家の墓の先は「十三士の墓」(右)。吾妻鏡によると頼家の家臣らは鎌倉幕府への謀反を企てたが事前に発覚。金窪太郎行親らによって暗殺。この墓はその十三士の墓と伝わっている。

修善寺へ来たらもう一か所見たい場所がある.。その途中にあったのがミシュランガイドで二つ星を獲得したという「竹林の小経」(左)。しばし俗世を忘れた世界を堪能。

楓橋を渡り7~8分、山の中腹に「源範頼の墓」(右)がひっそりと立っている。兄の源頼朝に謀反の疑いをかけられ日枝神社の信功院に幽閉された範頼は建久5年(1194)、梶原景時に攻められ自害。
さぞ無念な思いの自害だっただろう。
コメント:源範頼の墓は修善寺以外にも横浜や広島など全国各地にある。

修善寺でちょっとばかり遊びすぎたので急いで街道に戻り次を目指さねば。バスで修善寺駅入口まで戻り桂川に架かる「湯川橋」(左)を渡って再び下田街道の旅へ。

5~6分歩いた先の右手に見える山は「修善寺城址」(右)。康安元年(1361)、鎌倉公方足利基氏に叛旗を翻した畠山国清が立て籠もった城だが ちょっと遠いので今回はパス

この先しばらくは街道際の常夜灯や庚申塔・賽の神などを探しながらの旅となる。

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