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伊豆の踊子が歩いた
旧天城トンネル越え              街道地図
前回の下田街道天城峠越えは江戸時代の後半に開通した二本杉峠ルートを歩いたが
旧天城トンネル(天城隧道)コースも忘れるわけにはいかない。伊豆半島先端・下田の住民に
とって悲願だった旧天城トンネル(天城隧道)が完成したのは明治37年(1904)。このトンネルを
踊子一行と川端康成も歩いており、後に川端はこの時の体験を短編・伊豆の踊子として発表。
その伊豆の踊子が歩いた道が「踊子歩道」として整備された遊歩道となっているので今回は
この道を通って旧天城トンネルを通り、再び江戸時代の下田街道に戻る。

 平成26年9月21日

今回のスタートは「バス停ゆうゆうの森入口」(左)。
(コメント:踊子歩道のスタートからバス停ゆうゆうの森入口までは前ページの旧天城峠越えに記載してあります)

ゆうゆうの森入口から林道に入り大川端橋を渡るとちょっと開けた場所に出て江戸時代の下田街道である二本杉峠への道と、伊豆の踊子一行が歩いた踊子歩道との分岐に差し掛かる。

今回は左へ曲がって踊子歩道に入ることに。

曲がってすぐに見えたのが「森林鉄道遺跡」(左)。  天城山中にも森林鉄道が走っていた、と思ってしまうが これは木曽森林鉄道を移設して展示したもの。 紛らわしいね~

踊子歩道はこの先の大川端キャンプ場跡を通り、林の中の遊歩道を歩き、トラス橋を渡りかれこれ30分ほど歩くと「旧天城トンネルへの案内表示」が建てられている。
案内に従って国道414号の下を通り階段を上ると そこは国道から分岐した旧天城トンネルに向かう旧道の入口。

かつてはボンネットバスも走っていた旧道は普段は静かな道。ところが今日は日曜日。車が結構多く通り「時にはバイクも」(左)。このバイクのお兄さん、静かーに通り過ぎていったけ。

しばらく歩くと ちょっと見落としそうな小さな橋があるが親柱に刻まれている文字は「踊子橋」(右)。

踊子橋を渡って数分、一段高い所に見える大石は「川端康成文学碑」(左)。碑に刻まれているのは 伊豆の踊子 の書き出し部分。
伊豆の踊子  道がつづら折りになっていよいよ天城峠に近づいたと思ふころ、雨脚が杉の密林を白く染めながらすさまじい早さで麓から私を追って来た  川端康成  たぶんこの辺りを歩いていた時の情景だろう。 

もう少し歩いた先の白橋を渡ると氷室園地と書かれた案内板が。左手の坂を上ると「氷室」(右)が見える。その傍には製氷池も。大正から昭和初期まで天城山の極寒を利用して天然氷を製造し夏場に旅館や飲食店に供給していたという。

氷室園地から街道に戻ると街道際にひっそりと立っていたのは「天城路碑」(左)。

うねうねと曲がる上り坂をかれこれ20分。突然「江藤延男追慕之碑とレリーフ」(右)が。天城の森を守る会の初代会長なのだとか。伊豆の踊子が歩いた道をたどっているのに、碑だけならいざ知らず おじさんのレリーフまでとはちょっと違和感があるなー。

レリーフのすぐ先が目指してきた「旧天城トンネル」(左)。かたわらの「天城隧道碑」(右)によると明治37年(1904)に完成したとある。全長445.5メートル、切石積で造られた隧道としては国内最大長で道路隧道として国内初の重要文化財。

トンネルに入ると所々に電燈はあるのだが結構暗い。ポツンと見える出口の明かりを目指して数分、暗闇が突然明るくなったと思ったら後ろから車が。車をやり過ごすと再び暗闇に

トンネルを出た後はつづら折りの坂道を下っていくのだが時折り通る車が巻き上げる砂埃りには少々閉口だ。
それでも景色を楽しみながら快適に下っていく事ができる。

ほどなく到着した場所は 石川さゆり の 天城越え で有名になった「寒天橋」(左)。といってもごくごく普通の橋。 だがバス停があるということは人気があるのかな~

寒天橋から50メートルほど下ると右下に「二階滝(にかいだる)(右)が見え始めてくる。
もう少し下った観瀑台前の説明板に 「河津川第一番目の滝。 新緑、深緑、紅葉、雪と四季折々に変化する様は見事」 とあるが今は木の間越しで全貌が見えないのが残念。

この後はうねうねと曲がった道を30分ほど下り 河津七滝の案内表示に従って林の中の遊歩道に入り国道を横断して再び林の中へ。

ほどなく赤く塗られたトラス橋が見えてくる。その手前を100mほど下ると河津川二番目の「平滑の滝」(左)が目の前に。川幅いっぱいの1枚岩の上を流れ落ちる滝も良いものだ。

トラス橋を渡り十数分歩くと林道に合流。その先の宗太郎園地まで5~6分。前回歩いた「二本杉歩道との合流点」(右)が見えてきた。前回は二本杉峠から苦労して下り 擬木の橋を渡って踊子歩道に出た時はホットしたものだった。入り口に「通行止の表示」があるのでこちらからだったら登らなかっただろう。

二本杉歩道との合流点、樅ノ木の下に小さな「石仏」(左)が一体。いつ頃の建立か不明だが江戸時代から旅人の安全を見守ってきたのだろう。

この先しばらくは「宗太郎杉林道」(右)を歩くのだが箱根の杉並木に負けず劣らず素晴らしい。風が無いので全くの静寂。自分の足音だけがやけに大きく聞こえる。一帯の杉林は明治10年(1877)に植えられた「宗太郎人工杉学術参考保護林」。この地を開発した人の名前が付けられている。

林道の緩い坂を下ると左手の石の上に「題目塔」(左)が。南無妙法蓮華経と刻まれた塔は明治10年(1877)の建立。

しばらく歩くと足元に「石塔」(右)がひっそりと。
奉請地蔵願主大菩薩供養塔 と刻まれた石塔は旧路に安置されていた地蔵を新路のこの地に移した際に建てられたもので、側面に安永7年(1788)の文字が読める。

宗太郎杉林道を20分ほど下って来ると「河津七滝入口」(左)の案内表示がある。せっかくなので滝を見物していこうではないか。

案内表示にしたがって階段を下ると最初に見えたのは滝ではなく「猿田淵」(右)。その昔、猿田彦命という神様がここを通りかかったとき、大きなヤマメが水面から飛び上がったのを見てさっそく釣り上げてしまったという。里人は誰言うことなく猿田淵と。

猿田淵から先も新しくできた木製階段をどこまでも下っていくのだが途中で見えたのは七滝最初の「釜滝」(左)。展望デッキから間近に見ることができる。

その先も下り階段が延々と続く。

次の滝は「エビ滝」(右)。 エビフライみたいに見えるな~

釜滝の近くで「だるだるだんだんはし(滝々段々橋)」なる脚がだるくなるような吊り橋を渡ってきたが、今度は「河津踊子滝見橋」(右)という長い名前の吊り橋が。坂になっているというユニークな吊り橋だ。

その先の滝は「蛇滝」(右)。滝の回りの玄武岩が蛇の鱗のように見えるから蛇滝なんだとか。鱗には見えなかったなー

長い長い階段を下った先に見えた滝は「初景滝(しょけいだる)(左)。踊子と学生(川島青年)のブロンズ像があることから観光客に人気のスポット。

この先は舗装された緩い下り坂なのでホッとする。途中にも踊り子と学生の像が。

遊歩道の右下に見えるのは「カニ滝」(右)。小さな滝で遊歩道から見えずらいため地味な存在の滝だ。

六番目の滝は「出合滝」(左)。二本の川の流れがここで滝となって合流するのだが草木が生い茂って出合い点が見えないのが残念。
残念がもう一つ。七滝で最大の「大滝」(右)が民有地の中を通らなければ近づくことができない。

何とか見ることができないかと探したが だめであった。
とそのとき、天城荘の宣伝ポスターに大滝が映っているではないか。思わずシャッターを。

河津七滝全部を見ることができなかったのが残念だが、再び下田街道の旅を続けようではないか。この辺は旧下田街道のルートがはっきりしないが、
初景滝の近くからそれらしき道に入れるので初景滝まで戻ることに。

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