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下妻街道 道中記

(1)千住宿から八条  (2)八条から山崎  (3)山崎から小山の渡し  (4)小山の渡しから水海道  (5)水海道から石下  (6)石下から騰波ノ江 (7)騰波ノ江から下館

(1)千住宿から八潮市八条まで 街道地図

下妻街道の旅、スタートは日光街道千住宿から。
旧宿場街を進むと水戸街道との追分があり、その先に日光街道と下妻街道の追分がある。
下妻街道は日光街道を左に分けて真っ直ぐ進み、荒川を越え、 五反野駅前、花畑街道を
通り 綾瀬川に架かる内匠橋を渡るとほどなく埼玉県八潮市。見どころの少ない街道をさらに
1時間ほど歩くと中川の土手道となり、やっと下妻街道らしい雰囲気が。
その先しばらくは中川沿いに北上していく。

平成31年2月12日

JR北千住駅から西へ数分歩くと旧日光街道が南北に横切っており、ここを右に入ると旧千住宿。 
宿場町通りを7~8分歩くと十字路際に 「北へ旧日光道中 東へ旧水戸佐倉道」 と刻まれた道標が建てられているが ここを右に曲がる道が旧水戸街道。

十字路をさらに真っ直ぐ100mほど歩いた先の三叉路に 「左 旧日光道中 右 旧下妻道」 と刻まれた「追分道標」(左)が建てられている。下妻街道はここで旧日光街道と分かれ北進。

ところが、すぐ先で「荒川」右)の土手にぶつかりその先は消滅。明治末から大正・昭和初期にかけて開削された荒川放水路(現荒川)によって下妻街道が分断されてしまった。 ここはちょっと上流の千住新橋で荒川を越え土手道を数分歩いて歩道橋を渡り下妻街道に復帰。

下妻街道に入ったら五反野駅前、四ツ家六差路、花畑街道を通り、環状7号を横断。綾瀬川にぶつかったら護岸に沿って北上、の予定であったが護岸工事のため通行止め。
迂回路を通る羽目になったが工事が終われば通行止めも解除されるだろう。

 綾瀬川に架かる内匠橋を渡るとすぐ先に鎮座しているのは「赤稲荷神社」(左)。創建年代は不詳だが綾瀬川の大洪水で流された星野家の屋敷神が現在地に流れ着いたという。かつて屋根を赤い砥の粉で塗ったことから赤稲荷と呼ばれるようになったのだそうだ。

下妻街道は内匠橋を渡ったら左に曲がり綾瀬川にそって大きく円を描くように右へ曲がって行く。その途中にあったのが「氷川大明神(浮塚氷川神社)(右)。創建年代は不詳だが言伝えによると豊臣家の家臣であった小宮将艦が戦に敗れてこの地に土着し当神社を祀ったという。

氷川大明神を出てかれこれ30分、街道際の大きな鳥居の奥は「大曾根八幡神社」(左)。文亀2年(1502)に勧請された神社だが後三年の役で源義光が兄源義家援軍のため寛治元年(1087)に綾瀬川を渡り大曾根の地を経て東国に赴いた頃より八幡神が奉斎されていたとの説もある。

八幡神社を出て4~5分、境橋の下を流れる川は万治3年(1660)に関東郡代の伊奈忠克が開削した葛西用水。
葛西用水を渡ると かつて宿場があった大原地区。 今はごく普通の町並みだが その中で存在感ある古民家風建物は和菓子のお店 「菓子道楽 杵屋」(右)。小松菜入りの餡を求肥でくるんだ和菓子 やしお躑躅(つつじ) が美味い。

杵屋から10分ほど歩き県道54号を横断したすぐ先の スーパーいなげや と亀有信用金庫の間を右へ曲がり300mほど歩くと丁字路に突き当る。さてこの先は? 
旧道が消滅したようだ。ここは右へ曲がりすぐに左へ曲がって中川の堤防を目指すことに。

かれこれ15分ほど歩くと普門院の入口に「土手供養碑」(左)がある。この供養碑は明暦元年(1655)に中川の土手に建てられたもの。当時は中川がしばしば氾濫し村人を苦しめていた。そこで普門院住職浄西が土手が切れないようにと願掛けし造られたもの。以来土手は切れなくなったという。土手まもり様という民話が。

その先の二丁目交差点を過ぎ数分歩くと「中川堤防」(右)。下妻街道はその手前の自然堤防の上に出来た中川提道を中川に付かず離れずして北上。

数分歩くと集落の中に「二丁目氷川神社」(左)が鎮座。当地の草分けである恩田治部が神主となって中川自然堤防の高台に氷川明神を祀ったとされている。二丁目は当地の地名で条里制(古代の土地区画法)にちなんでいるという。

街道に戻り数分、右側の土手下に石塔が見える。回り込んでみると天保2年(1831)に造立された「馬頭観音」(右)であった。ちょっと変わっているのは三面六臂ならぬ「一面八臂」。 これは珍しい。

2丁目の先は鶴ケ曽根であるが ここは自然堤防上に古くからある集落で 上と下の二村に分かれそれぞれに祀られているのは久伊豆神社。

「下久伊豆神社」(左)は天文3年(1534)に創建された法幢寺の鎮守社として上久伊豆神社の分霊を勧請し創建と伝わっている。 一方、「上久伊豆神社」(左)は文禄3年(1594)の創建と伝えられているが、医王寺年貢除地願書によると「文禄3年に中興」とあることから それ以前の創建であったようだ。

鶴ケ曽根から八条に入る境界部分にひっそりと立つのは「八条村道路元標」(右)。大正8年(1919)に制定された旧道路交通法に規定されたもので当時1万2千以上あった市町村にそれぞれ設置されていた。

道路元標の先は車1台やっと通れるような細い道。10分ほど歩くと八潮排水機場で旧道は分断。右へ曲がって回り込むと排水機場脇に「庚申塔など4基の石塔」(左)がある。左から2番目の庚申塔側面に「江戸道」「野道」と刻まれている。ということは、元々は下妻街道沿いにあったのだろう。

そのすぐ先に見える町屋造りの建物は「太田家住宅」(右)。入り口の説明板によると太田家は下妻街道と成田道が交差する八条の渡しの河岸場で河岸問屋を営んでいた。この建物を普請中に安政の大地震に見舞われたという。
平成19年(2007)に主屋と蔵を現在地に移設。

太田家住宅から5分程先の清勝院は長享3年(1489)の開山で江戸時代には多くの末寺を持つ本寺。その「山門」(左)は朱塗りだったことから赤門と呼ばれ一般人は通行が許されなかった。そのため開かずの門と呼ばれていたという。瓦葺きの四脚門は室町時代の建築様式を今に伝えており八潮市の文化財。

街道に戻り10分ほど歩くと左手奥に大経寺山門が見える。この山門は文化13年(1816)に再建されたもの。
また境内の「観音堂」(右)は文久元年(1861)の再建だが、ここには円空上人が彫った千手観音像が安置されている。
千手観音の円空仏は珍しいが拝観できないのが残念。

大経寺の先、八条橋西詰交差点を右に曲がると中川に架かる八条橋があるが ここは「八条の渡し」(左)があった付近。 室町時代からの渡し場で奥州街道から下総国へ向かう重要な渡船場であった。

交差点を通過して左へカーブすると その先に「和井田家住宅」(右)が鬱蒼とした森の中に隠れている。和井田家は八条村の世襲名主で中世以来の土豪。主屋は17世紀末頃の建設と推定されている。主屋南側の長屋門もほぼ同年代に建てられたもの。
  コメント:一般公開は毎月第三土曜日のみなので注意を。バス通りに説明板が建てられている。

近くに バス停・和井田家住宅前 があったので今回の街道歩きはここまで。

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