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下妻街道 道中記

(1)千住宿から八条  (2)八条から山崎  (3)山崎から小山の渡し  (4)小山の渡しから水海道  (5)水海道から石下  (6)石下から騰波ノ江 (7)騰波ノ江から下館

(4)小山の渡し跡から水海道まで 街道地図

下妻街道の旅 4回目は利根川を渡って茨城県坂東市の 小山の渡し跡 から 水海道 まで。

渡し跡を出発したら小山の集落を抜けて県道142号に入り時々寄り道しながら一時間半ほど北進。
坂東市の仲町十字路まで来たら国道354号に入り今度は一転して南下。辺田あたりからは東進して
鬼怒川に架かる豊水橋を渡り水海道に入る。水海道に入ったら関東鉄道常総線に沿って再び北進。

途中の見どころは少なく単調な歩きが多くなってしまう。県道、国道とはいえ長閑な田舎道。景色を
楽しみながら歩けば飽きることは無い。

平成31年3月20日

茨城県側の 「小山の渡し跡」(左) は坂東市の利根川沿いにある 小山下遊園地 という看板がある小さな公園の辺りと考えられる。 写真は公園から撮影したものだが公園内にある小さな祠の中に祀られているのは水神宮。
 コメント:小山の渡し跡までは東武野田線・愛宕駅からタクシー利用。 

渡し跡付近の公園前から出発した下妻街道は小山の集落を抜け県道142号に入り坂東市街まで北進。
十数分歩いた右側に「庚申塔と庚申塔板碑」(右)があるが傍らに 考古資料小山庚申塔板碑 と記された標柱があるのみで説明の類は無く詳しいことは分からない。庚申塔には天保6年(1835)の銘が。

事前の調査では見どころが少ないと思われたが街道沿いにはポツポツと江戸時代を感じる遺構がある。

街道沿いの神社だが、由緒の類が無いため
詳しいことは分からない。朱塗りの本殿が
なかなか素晴らしい。
香取神社隣の地蔵院は雄弁上人によって
創始された寺で猿島坂東三十三観音霊場の
第32番札所。
地蔵院のすぐ先、塀に隠れるように道標が
1本。矢印は読めるが残念ながら文字は
ほとんど読み取れない。
交差点の向うに庚申塔が1基。天保2年の
ものだが、庚申 とだけ刻まれているのは
珍しい。
中央は木曽御嶽信仰の三神である御嶽山大神、八海山大神、三笠山大神右は猿田彦大神、
左は金龍山浅草寺の観世音菩薩。

御嶽山大神前の交差点を左に曲って寄り道を。数分先に来迎寺がありその先の十字路際は「長谷香取神社」(左)。社殿が比較的新しいが、由来碑によると旧社殿は延宝元年(1673)以前の建立であったが平成5年(1993)に不審火で焼失、建て替えられたものだという。300年以上前の建物を焼失とはもったいない。

香取神社の横を通った先の「長谷観音堂」(右)は元禄初期の建立で これも300年以上前の建物。だが、もっとすごいのは安置されている御本尊の十一面観音菩薩。和州(大和)長谷寺の末木をもって刻まれた観音像で延暦19年(800)に坂上田村麻呂が奥州蝦夷征伐に赴く際、御安置の上祈願されたもので1200年以上前のもの。

長谷観音堂から街道に戻り15~16分、県道から左に入り市民音楽ホール前まで来ると馬に跨る「平将門像」(左)が。 自らを新皇と称したがついには朝敵とまで言われてしまった平将門。  ところが茨城県では将門公と呼ばれるほどの英雄、そのなかでも坂東市は特別。この岩井は将門終焉の地。

将門像から5分ほど歩いた十字路際に享和元年(1801)「普門品供養塔」(右)が建てられている。普門品(観音経)を何万回も唱えた記念碑だが、さて、何万回唱えたのだろうか。

ほどなく国道354号と交差する「仲町十字路」(左)。下妻街道はこの十字路を右へ曲がりこれまでの北進から一転して南進に変わる。地図を見ると南下した街道は水海道で再び北進となるが何故大きく迂回するのか謎のまま。

十字路を右ではなく左折して2kmほど歩くと平将門終焉の地とされる國王神社があるが、ちょっと遠いので今回はパス。
十字路を右折すると坂東市街。電線の無いスッキリした町並みが続く。その先に名残りの「街道松の並木」(右)があるが残っているのは4~5本。残念だね~

松並木から15分ほど歩くと街道際に「茶顛中山翁製茶紀功碑」(左)と刻まれた石碑が。中山翁とはこの地方に製茶業を広め江戸末期の安政6年(1859)に我国最初の製茶輸出を行った人物。茨城県の三大銘茶の一つ 猿島茶 の功労者。

その先4~5分の辺田交差点まで来たら右へ曲がってちょっと寄り道を。
向った先は「西念寺」(右)。 もとは聖徳寺と言われていたが、親鸞聖人24輩第7番西念の縁の寺であることから江戸初期に寺号を西念寺と改められた。 一方、西念が創建した野田の西念寺は西念坊が108歳まで長生きしたことから正応元年(1288)に長命寺と。

右手に菅生沼を眺め馬洗橋を渡ると右に入る旧道があるのでそちらへ。車が通らず鄙びた雰囲気がなんとも心地よい。

10分ほど歩くと再び国道に合流。神田山交差点を右に曲がった先に鎮座するのは「神田山(かどやま)八坂神社」(左)。この神社に古くから伝わる「将門ばやし」は将門公の本陣で行われていた軍楽が原型だと云われている。

街道に戻り十数分歩くと道路際の竹藪前に「加波山大神碑」(右)が。 加波山大神?こちらの神社のことだろうか。

さらに十数分歩くと県道135号が分岐する交差点際に 21番大師堂 と記された看板があったのでちょっと寄り道を。小さな大師堂があり、前庭には「多数の石仏」(左)が。説明板の類が無いので詳しいことは分からない。21番ということは20蕃、22番はどこに?入り口に庚申塔が並んでいるが見かけることが少ない地蔵庚申は享保元年(1716)の造立。

再び国道を小一時間。県道58号との合流点手前に天保12年(1841)「馬頭観音道標」(右)がある。側面と背面が道標になっているのだが文字がほとんど読み取れないのが残念。

馬頭観音道標からかれこれ30分、鬼怒川に架かる豊水橋を渡るとかつて水運で栄えた水海道。
橋を渡ってすぐに右へ曲がると見えたのが「五木宗レンガ蔵」(左)。幕末から明治にかけて栄えた水海道河岸には有力な問屋が軒を連ねていたが五木田宗右衛門家もその一つ。このレンガ蔵は明治15年(1882)の建造。

レンガ蔵のちょっと先右側の 「富山倉庫」(右)も水海道河岸時代の名残り。 明治4年(1871)に建てられた木造平屋建ての倉庫は東日本大震災でもビクともしなかったという頑丈な造りだとか。

その先の十字路を右に入ると土手の中腹に「水海道河岸跡碑」(左)が建てられている。「鬼怒川の水は尽きるとも、その富は尽きることなし」と称えられた豪商の店が連なる水海道河岸。幕末から大正初期まで一日に百艘もの舟が出入りするほどの賑わいだった。

街道に戻り5分ほど歩くと左奥に「水海道八幡神社」(右)が見える。戦国時代に水海道城(御城)城主田村弾正の守護神として祀らたが次第に荒廃。延宝5年(1677)に現在地に移された。拝殿の奥に垣間見える本殿が素晴らしい。
境内右手の石碑は本居宣長歌碑

八幡神社を出たら次の諏訪町交差点を左に曲がっていく。
数分歩き新八間堀川を渡ったら左へ曲がると御城公園という小さな公園があるが、この辺りは「水海道城跡」(左)。戦国時代、田村弾正の居城であったが天正5年(1577)に北条氏との戦いで戦死。説明板の類がないので詳しいことは分からない。

この先は水海道第二高校前を通っていくのだが人通りがなく静かな町並みが続く。ほどなく県道357号に合流するがその近くに関東鉄道常総線の「北水海道駅」(右)があるので今回の街道歩きはここまで。


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