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下妻街道 道中記

(1)千住宿から八条  (2)八条から山崎  (3)山崎から小山の渡し  (4)小山の渡しから水海道  (5)水海道から石下  (6)石下から騰波ノ江 (7)騰波ノ江から下館

(3)山崎から小山の渡し跡まで 街道地図

下妻街道の旅 第三回目は野田市山崎(日光東往還の旧山崎宿)から。

山崎宿の先で日光東往還と分かれ醤油で有名な野田に入る。その先は、蕃昌、船形を経て
利根川の 小山の渡し跡 まで。 かつては渡し舟で利根川を越えたのだが今は舟も橋も無い。

今回のコースでは野田には見所が多いがその先は見所が少なく、最後は田園風景広がる長閑な
田舎道。彼方に見える利根川の堤防を目指すことになる。
(1)千住宿から八条  (2)八条から山崎  (3)山崎から小山の渡し  (4)小山の渡しから水海道  (5)水海道から石下  (6)石下から騰波ノ江 (7)騰波ノ江から下館

平成31年3月8日

山崎宿碑がある交差点を渡り左へちょっと歩くと火伏せの神として信仰されている「秋葉神社」(左)の小さな祠がある。傍らの由来碑には「・・明治初年の神仏分離政策により秋葉神社になりました・・・」とあるが勧請年などの詳しい情報は記載されていない。こんな遠くまでにも秋葉大権現の信仰があったとは。

すぐ先の福寿院参道に並んでいる「石仏」(右)はかなり古い時代のもの。 如意輪観音は延宝6年(1678)、六地蔵は安永5年(1776)、地蔵尊には享保3年(1718)と銘がある。

山崎交差点で日光東往還に合流したが交差点から7~8分歩いた歩道橋先の「梅郷駅入り口交差点で東往還と分かれ」(左)西へ向かう流山街道を進んで行く。

ほどなく街道際に「7基の石仏」(右)が並んでいるが その内5基は庚申塔。左側は地蔵尊だが右側の小さい石塔は比較的珍しい 疱瘡神。悪神とされる疱瘡神であるが、一方で、祈ると疱瘡から免れるという。かつてこのあたりで疱瘡が流行ったのだろうか。

10分ほど歩くと街道左側に神明神社があり道路反対側には文字庚申塔が見える。その先から旧道が400mほど続くが再び流山街道に合流。

合流点右側は承久2年(1220)創建とい古刹「長命寺」(左)。創建したのは八幡太郎義家の曾孫で後に出家し親鸞上人に帰依した西念坊。当初の寺名は西念寺であったが西念が108歳まで長生きしたことから正応元年(1288)に長命寺に変えたのだとか。
境内右手の太子堂には太子堂句額と呼ばれる野田地方最古の句額が奉納されているという。

5~6分歩いた先の須賀神社は延享2年(1745)の創建。社殿の後方にある「猿田彦像」(右)は文政6年(1823)に造立されたもので約2mの丸彫り立像。野田市の有形文化財。

須賀神社の先は醤油のキッコーマン関連施設が続く。
すぐ先右側の「興風会ビル」(左)はキッコーマンの創立者である茂木、高梨両家が設立した社会奉仕活動を行う興風会によって昭和4年(1929)に建設されたもので国の登録有形文化財。

その先の全面ガラス張りの建物はキッコーマン株式会社の本社ビル。
数軒先の「千秋社ビル」(右)は大正6年(1917)に野田商誘銀行の建物として建設されたもので、後に醤油製造団体を支援する千秋社が所有。この建物は近代化産業遺産に認定。

千秋社ビルの数分先を右に入り5~6分歩くと野田市郷土博物館があるがここは「旧茂木邸」(左)。 醤油醸造家の茂木佐平治家の邸宅として大正13年(1924)に建てられたものだが昭和31年(1956)に野田市に寄贈され現在は無料で一般開放。

街道に戻り5~6分歩いたら左に入ると天保8年(1830)創業の「キノエネ醤油」(右)の本社工場がある。大正6年(1917)に野田醤油株式会社(後のキッコーマン株式会社)が設立され多くの醤油醸造業者がこれに加わったがキノエネ醤油だけは参加せず独立事業を今日まで続けている。

数分先の交差点際に神明型の鳥居が見えるがその奥は延長元年(923)に山城国・愛宕の里から火伏の神である迦具土命の御分霊を遷奉りて創建したという「愛宕神社」(左)。本殿は文政7年(1824)に11年の歳月をかけて再建されたもので壁や柱の至る所に施された彫刻が素晴らしい

境内東端の大木の下にある「芭蕉句碑」(右)は文政11年(1828)に建立されたもの。
    百年の 気し幾を庭能 落葉可那  はせを  百年の 気しきを庭の 落ち葉かな

雪見灯篭は江戸商人衆48人の講中が文政12年(1829)に建立。北側の鳥居は元禄元年(1694)建立という古いもの。

愛宕神社の別当寺であった西光院参道の祠の中に「延命地蔵」(左)が鎮座。野田市内最古の石造物で光背の銘に寛文2年(1662)とあり野田町の長右衛門を願主とした43名の名が刻まれている。

延命地蔵の対面に建つ石塔も「芭蕉句碑」(右)で側面に刻まれているのが芭蕉の句。
  涼しさや 本能三日月の 羽黒山 涼しさや ほの三日月の 羽黒山

街道に戻り数分歩くと長屋門が1棟。その先は清水公園駅前を通り東武アーバンパークラインのガード下を抜けていく。

しばらく歩くと街道際に鎮座しているのは「香取大神社」(左)。社殿改築記念碑によると創建は元和10年(1642)。鳥居脇に庚申塔など9基の石塔が整然と並んでいる。

さらに20分ほど歩くと旧山崎宿の先で分かれた「日光東往還に合流」(右)。だが、左へ曲がって蕃昌町を500mほど歩いたら再び日光東往還と分かれ右へ曲がっていく。

国道16号を横断した先の十字路際に青面金剛と刻まれた天明2年(1782)「庚申塔道標」(左)が道路を背にしてポツンと立っている。側面に刻まれている行き先は「右 むしろうち つくば道」「左 きまがせ道」。 「むしろうち」とは利根川を越えた先の坂東市蓆打のことか。

この先は長閑な田舎道。10分ほど歩いた所に天保10年(1899)「庚申供養塔」(右)がある。

さらに5~6分ほど歩いた先の十字路を右に曲ると応永2年(1416)開山の「富蔵院」(左)。本堂前の牡丹畑が素晴らしい。今は冬枯れだが牡丹が咲くころは見事な牡丹園となることだろう。

富蔵院の隣は仁寿年間(851~856)に石宮を建てて創立したという「船形香取神社」(右)。この神社では「オビシャ」と呼ばれる神事が200年以上に渡って今も引き継がれている。魚類や野菜など29品目にのぼる御膳を当番の組が作り、大きな茅輪を潜って神前に供えて五穀豊穣を祈願するのだそうだ。

街道に戻り船形交差点を越えると道端に文字が読めなかったり半分に折れた石塔が。
その先は「田んぼの中の一本道」(左)。遥か彼方に家が見えるが利根川の堤防はさらにその1kmほど先。

途中に小船橋水辺公園があったので一休み。 公園の横を流れる関宿(せきやど)堀は関宿城から利根川までの20kmほどの用水堀で、江戸末期に新田開発のための灌漑用水として開削されたもの。

一休みしたら出発だ。十数分歩くとバス停と集落があり、その突き当りが利根川の堤防。堤防に上がると河川敷は見えるが川は林の向うで見えない。そのあたりが「小山の渡し跡付近」(右)だろう。

小山の渡しまで歩いてきたが問題は帰る方法。 集落外れにバス停があるのだが午後の便は17時14分の一本のみ。今回は歩く距離が短かったのでまだ午後3時前。
2時間も待てない。ということで下流の芽吹大橋南詰めバス停まで3kmほどを歩く事に。野田市駅行きのバスが1時間に1本ある。

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