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下妻街道 道中記

(1)千住宿から八条  (2)八条から山崎  (3)山崎から小山の渡し  (4)小山の渡しから水海道  (5)水海道から石下  (6)石下から騰波ノ江 (7)騰波ノ江から下館

(5)水海道から石下まで 街道地図

下妻街道 5回目は水海道(みつかいどう)から石下まで。

関東鉄道常総線の北水海道駅で下車したら前回終了した森下町交差点まで歩き
下妻街道の旅 再スタート。この先は鬼怒川に沿って北進するのだが、県道357号、
ちょっと鄙びた感じが残る旧道、景色の良い鬼怒川の土手道と変化を持たせながら
歩くと飽きない程度に石塔や祠、神社・仏閣などが現れる。
石下の町に入ると右手の民家向うに立派な城が見えるではないか。この辺りに城など
あったかなー。 ということでちょっと遠いがお城の見学も。

平成31年4月5日

森下町交差点から先は県道357号を歩くのだが、石塔や祠が点在するのでまとめて紹介。
森下町交差点から10分ほど歩くと
歩道際に六十六部供養塔が2基。
一基は文政2年(1819)の造立。
六十六部供養塔の右後ろにある祠には
延宝3年(1675)造立の馬頭観音が
祀られている。
六十六部供養塔から数分歩くと弘法
大師堂がある。その前の広場端には
宝篋印塔や多数の石仏が。
弘法大師堂から5~6分、歩道際に
庚申塔と上部が欠けた石塔が。
そのすぐ先の馬頭観音は昭和10年
(1935)の造立。この頃はまだ馬が活躍
していた時代。

道路際に「寺前子育地蔵尊」(左)の看板が。毎月24日が縁日のようだが今日はひっそりとしている。地蔵尊は隣の集会所内に祀られているようで見ることはできない。変わりに見たのは太子堂や宝永3年(1706)の庚申塔、正徳6年(1716)の馬頭観音、六十六部供養塔など。

5分ほど歩くと墓地の前に庚申塔が1基。墓地の一角にあるお堂には醫王閣の表示が。醫王閣の先から「左に入る細い道」(右)が旧道。狭い道が続く旧道には生垣があり、畑があり、水路があり、浅間神社も。

浅間神社から数分の丁字路際に「道標」(左)が一本。この辺では珍しい指差し道標で右方向の指差しが「水海道方面」、左方向は「下妻方面」と刻まれ、側面には「五箇村」とある。

しばらく歩いた水路沿いのフェンス前にも「道標」(右)が一本。刻まれている行き先は「南 水海道 中妻*** 」 文字が読み取れないのが残念。水路沿いの両側は家が点在する長閑な田舎道。今日は天気が良いせいか雲雀の囀りが心地良い。

この先にある祠の中に比較的新しい石仏が祀られているが馬頭観音だろうか。

旧道はこの先で県道を横断、水路沿いを7~8分歩くと水路の向うに「中妻神社」(左)が見える。隣には三嶋神社があるのだが共に由緒や説明板が無いため詳しいことは分からない。

その先数分の十家公民館前の左右に一本ずつ道標が建てられているが左は「安楽寺元三大師道」(左)と刻まれた道標で鬼怒川の向うにある安楽寺のこと。ちょっと遠いので今回はパス。「右側の道標」(右)は指差し道標で、正面に「☛石下町に至る ☚水海道町に至る」と刻まれ、側面に刻まれている文字は「十家渡船場入口 対岸大花羽村大輪」とある。大輪は安楽寺がある場所。

旧道はこの先も県道に並行して進み、三妻小、鬼怒中の横を通りほどなく県道に合流するが、その途中に 生駒神 と刻まれたこれまでに見たことが無い石塔があった。

 ・県道に合流した左側の小さな神社は「豊受神社」(上)。 
    ・この先は県道を歩くのだが4~5分歩くと白畑公民館前広場の奥に「地蔵堂」(上)などの祠が並んでいる。その隣には多数の石仏が。
       ・ちょっと気分転換と「鬼怒川の土手道」(上)に上がったら 景色は良い 車は通らない 風は爽やか なんとも気持ちが良い。
          ・しばらく歩いていたら「石塔」(上)が。側面に文政11年(1825)の銘が読めるが正面は風化が激しく道祖神か庚申塔か分からないのが残念。

土手上道をさらに進むと右側の土手下に鳥居が見えたがここは「三坂神社」(左)。大変に歴史のある神社で由緒によると延暦年間(782~806)に坂上田村麻呂が東征の折りにこの地に布陣。大同2年(807)、この地に日野皇子大権現の宮を建立。天保13年(1842)に地名と同じ三坂神社に改称したという。

この先も土手道を歩き 常総きぬ大橋 で県道に戻り、20分ほど歩いたら県道と分かれてコンビニ横の道に入って行く。
その先左側の寺院は親鸞聖人二十四輩第九番の善性坊が開山した「東弘寺」(右)。天正年間(1573~91)に現在地に移ったのだが本堂はその時のもの。本堂内の扁額は山岡鉄舟の筆によるものだとか。

石下の町に入ったら西福寺に寄り道を。参道入り口にあったのは「平将門公菩提供養之碑」(左)。建長5年(1252)、鎌倉幕府第五代執権北条時頼が将門公の祭祀常ならざるを憐み、時の守護職千葉氏に大法養を営ませ建碑させたと伝えられている。

「西福寺」(右)は寛永9年(1632)に了学上人の隠居所として建立された浄土宗の寺院。 ところが境内右手の池には四国に見立てた築山が設けられ、そこには多数の小さな祠が。これは四国八十八箇所石毛大師霊場。毎月21日の大師縁日には参詣の善男善女で大変賑わうそうだ。 コメント:弘法大師は真言宗

石毛の街中に入ると右手の彼方に城が見えるではないか。はて?石下に城などあったかな~?しかしどう見ても城だ。ということでちょっと遠いが見に行く事に。 到着したところは「豊田城」(左)。

平安時代末期から戦国時代にかけてこの地方を支配した桓武平氏一族の豊田氏が小貝川沿いに築いた居館が豊田城と呼ばれていたことから地域交流センターを城郭風に造り豊田城と名付けたのだとか。「天守閣展望台からの眺望」(右)がすばらしい。展望台を一周すると関東平野をぐるり360度眺めることができる。彼方には筑波山も。

街道に戻ったら左手の路地を入って石下稲荷神社に寄り道を。

この稲荷神社は豊受大神宮を勧請して延享2年(1745)に創建したことから当初は豊受神社と称していた。境内の一角に「大けやき」(左)があるが、その説明板に「樹齢500年とある。また稲荷神社一帯は陣屋敷という地名で、昔、ここに陣屋が置かれていたとの伝えがある」 と記されている。今の地名も新石毛字陣屋敷。

稲荷神社からさらに奥へ進むと県道357号にぶつかるが、その向こうは文化2年(1805)創業の「山中酒造」(右)。ブランドの「一人娘」は「辛口にして水のごとき酒」。

すぐ近くに関東鉄道常総線の石下駅があるので今回の街道歩きはここまで。

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