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下妻街道 道中記

(1)千住宿から八条  (2)八条から山崎  (3)山崎から小山の渡し  (4)小山の渡しから水海道  (5)水海道から石下  (6)石下から騰波ノ江 (7)騰波ノ江から下館

(7)騰波ノ江から下館まで 街道地図

令和元年年5月9日

下妻街道の旅 7回目は関東鉄道・騰波ノ江(とばのえ)駅から。
駅から100mほど歩いて県道357号に入り北進。下館市街までは見所が少ないがそれでも歴史ある神社や
寺院が何カ所か見られる。 大谷川に架かる野殿橋を渡り左へ曲がるとその先は遥か彼方まで真っ直ぐな道。
途中の見どころはほとんど無く小一時間歩いてJRと関東鉄道・真岡鐡道の踏切りを渡ると下館の市街へ入って
行く。下館は下館藩の城下町であったが商業の町としても発展。そんな良き時代の古民家が街道沿いに何棟か
残っている。
下妻街道のこの先は益子を通って奥州街道の喜連川まで約60km。 途中の真岡鐡道益子駅以外は公共
交通機関が全く無いので今回の旅は残念ながら下館までとした。

令和元年5月9日

今日の出発は「騰波ノ江駅」(左)から。なんとも難しい読みだが、万葉歌人が「鳥羽の淡海(おうみ)」と詠んだこの地は小貝川がせき止められて出来た沼地。常陸風土記に騰波ノ江と記されているが平安時代には姿を消していたというまぼろしの湖沼。江戸時代に干拓が行われ水田地帯となった。

県道を5~6分歩くと右手奥に見えるのは「若柳不動尊堂」(右)。由緒の類が無いため詳しいことは不明だが、かつてあった遍照寺が廃寺となり不動尊堂だけが残されたようだ。現在の不動堂は比較的最近に建て直されたもの。
 

街道に戻り15分、右手奥は貞観元年(859)に慈覚大師円仁が創建という古刹「福蔵院」(左)。本尊の十一面観世音菩薩は行基上人の作とされているが残念ながら普段の拝観はできない。

さらに20分ほど歩き右に入ると真っ赤なお堂が見えるがここは「辻稲荷神社」(右)。創建年は不明だが無病息災を願って文政13年(1830)から続く火渉神事は筑西市無形民族文化財。初午の日、境内に薪を敷き詰めて作った渡り道に火をつけその上を素足で渡るのだが、修験者のみならず参拝者も火渡りを行うんだって。度胸あるね~。

街道に戻り100mほど歩くと道路際に黒子村道路元標が今もしっかりと残されている。

黒子交差点から数分歩いた先を右に曲がり千妙寺に寄り道を。享和天皇の勅命で承和元年(834)に慈覚大師円仁によって筑波山麓に創建された古刹。当初は承和寺と称していたが観応2年(1351)に現在地に移転し千妙寺と改名。「釈迦堂(総本堂)(左)は元文3年(1738)に再建されたものだが最近、大修理が行われている。
 
街道に戻り30分ほど歩いたら「春日神社」(右)にも寄り道を。 説明板によると奈良・春日大社の末社で、藤原武麿が麿山に創建したものを延暦3年(784)に現在地へ遷座したという古社。総欅造りの本殿は弘化4年(1847)に建てられたもの。重厚な造りで見応えがあるのだが上屋で覆われているため写真写りが悪いのが残念。

春日神社から街道に戻り20数分歩くと右へ大きくカーブし大谷川に架かる野殿橋を渡る。渡ったら左へ曲がると遥か彼方まで真っ直ぐ。小一時間歩いて下館の市街へ。

下妻街道踏切を渡りすぐに右へ曲がって坂道を上って行くと妙西寺の前にあったのは「加波山事件志士の碑」(左)。明治政府の圧政に抗議する下館の民権家・富松正安らが 明治17年(1884)、加波山に決起し山頂に 自由立憲 の旗を掲げたが決起は失敗。政府の不当な罪状で処罰される結果となった。

加波山事件碑の裏に回ると「板谷波山夫妻の墓」(右)がある。岡倉天心や高村光雲らの指導を受けた日本陶芸界の巨匠である板谷波山は近代陶芸の中心的な役割を果たし工芸家として初めて文化勲章を受章。


この先で県道306号に合流。最初の丁字路を左に曲がった先の御堂は「北向き地蔵堂」(右)。この地蔵様には悲しい言い伝えが。 江戸時代の中頃、奥州からの旅人が急に発病。親切な茶屋の人に介抱されたが朝な夕なに故郷に向かい妻子の名を称えながら亡くなったという。哀れに思った村人が故郷の北に向けて一宇を築き地蔵を祀ったのだとか。

丁字路に戻り数分、右手に「中村家土蔵美術館」(右)。中村家は本陣役や町年寄りなどを務めた名家。13代中村兵左衛門は二宮尊徳の教えに感銘し天保7年(1836)の大飢饉で財政難となった藩の財政再建と農村復興に尽力。下館藩筆頭御用商人として個人の利益を超えて下館藩の財政を支えてきたという。美術館には板谷波山などの作品が展示されている。

美術館先の交差点を右に曲がると下り坂だが この坂道を「羽黒坂」(左)という。羽黒神社前の説明碑によると「江戸時代、この坂道はなかった。・・・・・ 大正(1912~)の初め、稲荷町周辺が開発されたこともあってこの台地が切り開かれ坂道ができた」 とある。 とすると元々の下妻街道は? 地図にはそれらしき道が見当たらない。

坂の途中に鎮座するのは「羽黒神社」(右)。文明10年(1478)、水谷左近将監勝氏が結城家より独立。下館に築城したが3年後に尊崇する出羽国羽黒神社を勧請して創建。この時、古式にのっとって城の鬼門に五つの羽黒神社を創建しその後2社を加え七羽黒と呼ばれたがその中心の神社。

街道は羽黒坂を下り、 しもだて美術館 に沿って左に曲がっていくのだが右に曲がって寄り道を。稲荷通りに入ると「田中稲荷愛宕神社」(左)の標柱と小さな鳥居が建てられている。ここは田中稲荷神社があった場所だが その跡地に建てられたもので祀られているのは羽黒神社の境内社である愛宕神社の分霊。

美術館前まで戻り先へ進むと田町交差点の向うに板谷波山記念館が見える。街道はここを右へ曲がるのだがここは左へ曲がって「田中稲荷神社」(右)に寄り道を。元々は田中稲荷愛宕神社がある場所に鎮座していたが安政4年(1857)に火災で焼失し当地へ遷座。同社の縁起によると文治5年(1189)に源頼朝が奥州征討の帰路 詣でたと云われている。

田町交差点まで戻り先へ進むと古民家が何棟か見えるが、その中に国登録有形文化財が道路を挟んで両側に。
左側の建物は茨城県で最初に国登録有形文化在に登録された「荒川家住宅(屋号△荒七)」(左)。 土蔵造りの見世蔵は明治40年(1907)、アールデコ調の洋館は昭和8年(1933)の建造。元々は醤油醸造業を営んでいたが現在は酒店。

右側の建物は「荒為」の屋号で下館を代表する卸問屋を営んでいた「荒川家住宅(屋号 荒為)」(右)。見世蔵は明治41年(1908)頃に建てられた土蔵造り2階建て、袖蔵は昭和8年(1933)頃に増築されたもの。写真では見えないが主屋は江戸時代末期の建築だという。

数分先の金井町交差点を左に曲がると古民家が何棟か見られる。

下妻街道は古民家の先で右に曲がり五行川に架かる大橋を渡って行くのだが、曲がらず真っ直ぐ進むと突き当りが「薬師堂本堂」(左)。
元々は下館藩主水谷勝氏が創建した大徳寺(廃寺)の境内にあったもので昭和の中頃まではお参りする人で賑わっていたという。
この堂宇は元禄4年(1691)の再建。筑西市の文化財。

この先喜連川までは約60km。途中の公共交通機関は益子駅のみと極めて交通の便が悪い。残念ながら下妻街道の旅はここまでとし下館駅から帰路に。

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