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下妻街道 道中記

(1)千住宿から八条  (2)八条から山崎  (3)山崎から小山の渡し  (4)小山の渡しから水海道  (5)水海道から石下  (6)石下から騰波ノ江 (7)騰波ノ江から下館

(6)石下から騰波ノ江まで 街道地図

平成31年4月22日

下妻街道の旅 6回目は石下から騰波ノ江まで。

関東鉄道常総線の石下駅を下車し再び県道357号に入り北進。下妻市に入ったら宗道神社、
宗任神社を見て旧道に入っていく。鄙びた田舎道をてくてくと小一時間、多賀谷城跡に寄り道し、
さらに小一時間歩き大宝八幡宮にも寄り道を。
大宝八幡宮を出た後は県道を30~40分歩き関東鉄道の騰波ノ江(とばのえ)駅から帰路に。

平成31年4月22日

県道357号を北進していると三叉路の真ん中に「地蔵祠と出羽三山碑」(左)がある。出羽三山碑の側面は道標となっており「是北 下妻二里 大*** 下館*里」と刻まれているようだが読み取りにくいのが残念。

20分ほど歩いた玉小学校入口交差点を右に曲がり5分ほど歩いた所に鎮座しているのは「原宿天満宮」(右)。 小さな神社だが由緒によると歴史は大変に古く、建治2年(1276)に京都北野天満宮の神霊を遷祀して創建。 今も学業成就、書道上達、芸能上達を願う参詣人が絶えないという。

街道に戻るとその先は遥か彼方まで真っ直ぐな道が続く。途中に立派な「長屋門」(左)があったがそれ以外の見どころは少ない。変わりに目に付いたのが庭先で飼われているワンちゃん。

どういう分けかこの道筋には庭先のワンちゃんが多かった。吼えなければ可愛いんだがな~

下妻市の土地改良区事務所敷地内に鎮座しているのは「江連用水神社」(左)。 江連用水の起源は寛永年間に伊奈備前守忠治が幕命によって農業用の灌漑用水を開削したのが始まり。その後幾多の変遷を経て今日に至っているが、係わった多くの人達の遺徳を顕彰するために昭和11年(1936)に創建したという極めて新しい神社。

宗道十字路を左に曲がり数分、道路際の鳥居奥は寛永年間(1624~45)に京都の八坂神社から遷宮し創建したと伝わる「宗道(そうどう)神社」(右)。かつて鬼怒川が大きく蛇行して神社のすぐ西側を流れていた頃は鬼怒川三大河岸の一つである宗道河岸があり大変な賑わいであったという。その説明板が神社裏に建てられている。

宗道十字路まで戻り十字路を横断するとその先に「薬王寺」(左)。 ここに南北朝時代の板碑があるというので訪ねたが残念なら説明板のみで見ることはできなかった。参道に並ぶ石仏は各地から集められたものだが中々味わい深い。

十字路まで戻り数分歩いた先の変則五差路向うは「宗任(むねとう)神社」(右)。 前九年の役(1051~61)で源頼義の軍勢に敗れた安倍宗任公の家臣・松本七郎秀則父子が鳥海山麓をあとにして南下し、天仁2年(1109)に当地に宗任公を祭神として祀ったのが始まり。

拝殿裏の石造は宗任神社を創建した「松本七郎藤原秀則翁像」。のはずだが、説明碑を読み進めると松本秀則ではなく三十三代祭主「松本秀賜翁」(左)の姿とある。紛らわしいネ~

さらにその奥、境内の外側は「江連用水旧溝」(右)。文政12年(1829)に完成した用水だが明治に入ると神社を取り巻くように分水溝が作られ、明治33年(1900)には煉瓦造りに進化。 宮裏堰と呼ばれ親しまれてきた。この宮裏堰は国土の歴史的景観に寄与しているものとして国登録有形文化財。

神社を出て旧道を7~8分歩くと「島屋百貨店」(左)の前。鬼怒川の蛇行部分は埋め立てられ宗道河岸跡も無くなってしまったが島屋百貨店だけが当時の賑わいを想像させてくれる。

7~8分歩いた先の「田下稲荷神社」(左)は小さな神社だが歴史は大変に古い。傍らの説明碑に大神の鎮座は平安時代とある。また田下という地名は地方豪族の豊田将基が宗任神社を尊崇しており祭祀料として奉納した郷を「手向けの郷」と呼び それが訛ってタゲになったという。

神社の横に「長屋門」(左)があるが その端にある石柱は「道標」(左)。指差し道標になっており「☛石下町ヲ経テ水海道町ニ至ル 約五里」「☚下妻町ヲ経テ下館ニ至ル 約五里」と読める。側面は「下栗ヲ経テ二本紀渡船場ニ至ル 約廿町」と。

この先は江連用水沿いを歩き途中から左に曲がり下妻市街に入って行く。その途中に戸閉の「見世蔵」(右)があったが かつては街道を行き交う旅人などを相手に繁盛していたのだろう。

下妻市街の上町に入ると「蔵造りの外山書店」(左)が。1階は手が加えられているが2階は黒漆喰の蔵造りのまま。その向こうに見える建物は2階が千本格子となっており旅籠風。

下妻街道はこの先で丁字路にぶつかったら左へ曲がるが すぐに右へ曲がるという宿場町特有の枡形構造。右へ曲って200mほど歩くと北側の枡形道。枡形まで来たら多賀谷城址へ寄り道を。その途中にあったのが「下妻陣屋土塁跡」(右)。 下妻第一高校が下妻陣屋があった場所だが東側の下妻稲荷神社との境が陣屋土塁跡。

下妻駅の跨線橋を渡って4~5分歩くと「多賀谷城本丸跡」(左)。
寛正年間(1460~66)に初代・多賀谷氏家がこの地に本丸を構え七代150年に渡って栄えていた。しかし関ヶ原の戦いで徳川家康の出陣要請に従わなかったことから慶長6年(1601)に城主追放。 東西1.5km、南北1kmという広大な城域であったが今は本丸跡のみが多賀谷城跡公園として残っている。

本丸跡の一角にある「多賀谷氏遺跡碑」(右)は旧主を慕う家臣子孫が明治23年(1890)に建立。それまで下妻城と呼ばれていたがこの石碑がきっかけで多賀谷城と呼ばれるようになった。

北の枡形まで戻り真っ直ぐな道をかれこれ10分、道が右へ曲がる手前に「子育守護土器地蔵尊堂」(左)と記された地蔵堂がある。土器地蔵とは珍しいが下妻坂東三十三観音第4番霊場という以外に詳しいことは分からなかった。

突き当りは「下妻神社」(右)。創建年代は不明だが正徳年間(1711~15)に当時の領主井上遠江守正長が社殿を再建。境内の一角にあるご神木の大欅は樹齢五百年だという。根本は空洞となっているが節くれだった幹は大変な迫力。
大きなパワーをもらえそうだ。

下妻神社を出たら関東鉄道の踏切りを渡り県道357号に合流してかれこれ30分、大宝八幡宮に寄り道を。

県道から分かれ5分ほど歩くと銅製の鳥居が見えるが その辺りから大宝八幡宮にかけての一帯は「大宝城跡」(左)。
貞永元年(1232)に下妻長政によって築城。南北朝時代は下妻政奏が城主であったが南朝方の北畠親房に味方したことから足利尊氏の重臣・高 師冬らに攻められ康永2年(1343)に落城。下妻政奏も城と運命をともにし下妻氏滅亡となった。

鳥居を潜った先の「大宝八幡宮」(右)は大宝元年(701)、藤原時忠公が筑紫の宇佐八幡宮を勧請して創建したのが始まりとされている。平将門公も戦勝祈願の参拝を度々行っていた。本殿は天正5年(1577)に下妻城主多賀谷尊経によって再建されたもので国の重要文化財。

境内の一角に「万葉歌碑」(左)が据えられており防人の歌が刻まれている。
    筑波嶺の さ百合の花の 夜床にも 愛しけ妹そ 昼も愛しけ   万葉集 巻20-4369

八幡宮の裏手に小さな祠2棟がひっそりと建っているがこれは「敵返不動尊と大宝十一面観世音」(右)。敵返不動ということは大宝城に関係したのだろう。また大宝十一面観世音は常陸三十三観音霊場の第26番札所で堂内には立派な観音様が祀られている。

再び県道に戻り北進。関東鉄道の騰波ノ江駅があったので今回の街道歩きはここまで。

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