(12)土浦宿つちうらじゅく |
土浦宿は土浦藩9万5千石の城下町で江戸方の南門から城下に入り城郭の東側を迂回して北門まで
およそ1.3km。城下町・宿場町の他に霞ヶ浦を利用した水運の拠点としても栄えていた。
街道の両側には商家が隙間なく並び 、千住、水戸に次ぐ賑わいの商業都市であったという。 |
街道地図 |
中村宿を出た後は大聖寺を見学し、布施街道との追分にある馬頭観音を眺め、愛宕神社に寄り道しながらかれこれ1時間。到着した場所は桜川に架かる「銭亀橋」(左)。かつては木製の美しい太鼓橋であったそうだが今は味も素っ気も無い桁橋。緩やかなカーブがちょっとだけ救いか。
橋を渡った左側の「銭亀橋の跡碑」(右) 裏面に次のように刻まれている。「水戸街道の桜川に架せられた桜橋、簀子(すのこ)橋とともに慶長18年(1613)の開通である」と。 |
銭亀橋を渡ると今までの街道とは少し雰囲気が違う。5分ほど歩くと土浦高架道の下に石碑が1本。碑に刻まれた文字は「市指定史蹟土浦城南門跡」(左)。近くの解説版に「享保12年(1727)まではここが土浦城の南端で、番所が置かれるとともに枡形と呼ばれる城の防御施設が整備されていたが明治6年(1783)に撤去された」 とある。
しかし道路まで撤去することはできなかったようで高架道の上から下を見ると見事な「枡形道」(右)が。 |
枡形を右に曲がった先奥に彫刻が施された建物が見えるが これは元文4年(1739)建立の「東光寺瑠璃光殿」(左)と呼ばれる薬師堂。小壁に施された彫刻は方位に合わせた十二支の透かし彫り。
瑠璃光殿の右前にあったのは「芭蕉句碑」(右)。
八九間 空伝雨降柳可那
左側は内田野帆の句碑。
声に身を持たせて揚る雲雀哉 野帆
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東光寺の隣は鎌倉時代の創建と伝えられる等覚寺。入口を入ってすぐ右側の鐘楼に吊り下げられている「梵鐘」(左)は八田知家が極楽寺に寄進したという常陸三古鐘の一つ。この梵鐘は国指定重要文化財。
街道を挟んだ斜め向こうに花蔵院の入口があるがこの奥の墓石は地理学者であり天文学者で傘式の地球儀を創作した「沼尻墨僊の墓」(右)。 |
水戸街道はこの先で2ヶ所目の枡形を曲がり宿場中心街へ。さっそく目に入るのが「山口薬局」(左)。2階の千本格子が時代を感じさせてくれる。
斜め先の水戸信金前に「水戸街道と町並み土浦宿」と題された説明板が掲げられているが、土浦宿は大町、田宿町、中城町、本町、中町、田町、横町の7町から構成され
それぞれに名主が置かれていた。
説明板先を右に入った奥は源頼義・義家が前九年の役のとき境内で軍馬を閲したと伝えられる「中城天満宮」(右)。 江戸時代には駒市が開かれ時には七百頭もの馬が集まったとか。 |
街道に戻ると思わずシャッターを押してしまったのが明治6年(1873)創業の「吾妻庵総本店」(左)。2階の看板がなんとも面白い。天ぷら蕎麦がことのほか美味しいそうだ。
すぐ先の蔵造りの店は「矢口酒店」(右)。左側に袖蔵が並んでいるのだが ともに嘉永2年(1849)の建築だという。 袖蔵は東日本大震災の影響で痛々しい姿に。 |
矢口酒点の並びは「まちかど蔵大徳」(左)。江戸代末期に建てられた呉服商大徳の見世蔵で、この他に袖蔵、元蔵、向蔵の4棟からなっているが今は観光案内所。大徳は宝暦3年(1753)に大国屋徳兵衛が創業した呉服商で、二百有余年経た現在もこの近くで商売を続けている。
大徳の向かいは喫茶室を併設した「まちかど蔵野村」(右)。江戸時代から続く砂糖問屋の母屋、袖蔵、文庫蔵、レンガ蔵を改修して民俗資料を展示。 |
まちかど蔵野村の横脇道を入ると「退筆塚碑」(左)が見られる。この奥は沼尻墨僊が開いた寺子屋があった場所で墨僊の七回忌にあたる文久2年(1862)に門弟たちが建立。
その奥はなんとも珍しい。鳥居と山門が並んでいるではないか。神仏混淆時代の名残か。ここは「琴平神社と不動院」(右)で、永享年間(1429〜40)に創建された不動院の境内に琴平神社の社殿を建立したという。 鳥居は文化8年(1811)に再建されたもの。 |
旧水戸街道はほどなく亀城(きじょう)通りと交差するが かつては川口川が流れ橋が架かっていた場所。昭和10年(1935)に埋め立てられてしまったが「旧櫻橋の親柱」(左)が残されている。左の小さな石柱は土浦町道路元標。
後ろの大きな建物は明治2年(1869)創業という「ほたて食堂」(右)。川の流れがあった頃は河岸で働く人達や水戸街道の旅人で大変な賑わいだったそうだ。創業当時は帆立、いや保立食堂であった。 |
亀城通りを横断した1〜2分先の商工会議所は「大塚家本陣」(左)があった場所。土浦宿には大徳の近くにもう一軒の本陣があったのだが今は表示も無く探すことができない。
大塚本陣の先は直角に左へ曲がっていく「曲尺手(かねんで)」(右)。曲がった先は真っ直ぐな道が暫く続き その先でもう一度枡形を通って北門跡へと続いている。
このまま曲尺手を曲がってはもったいない。亀城通りまで戻って土浦城址に寄り道を。 |
亀城通りまで戻ったら交差点を渡って右へ曲がり300mほど歩くと土浦城の堀が見えてくる。太鼓橋(霞橋)があり その向こうに堀があり、石垣の上には土塁がある。「まさに城の風景」(左)。ここは東櫓門前。
霞橋の向こうに見える建物(屋根だけ見える)は復元された「本丸東櫓門」(右)。 |
霞橋を渡って突き当たりを右に曲がり霞門を潜るとそこは「本丸跡」(下)。土浦城は室町時代に築かれ江戸時代に形を整えた城で、二重の堀に守られた平城。水に囲まれた城の姿が水に浮かぶ亀のように見えたことから別名「亀城(きじょう)」と呼ばれていた。
左写真に一部が写っているいる本丸櫓門は明暦2年(1656)に改築されたと伝えられる現存建物。本丸跡を出た左手方向の門は江戸時代の建築とされる「旧前川口門」(右)。武家屋敷と町屋を仕切る門で何回か移築が繰り返され現在地に。 |
旧前川口門を出たら地裁所前を通って左に曲がり搦手門の跡碑を見ながら本陣跡まで戻るとしよう。曲尺手(かねんで)を左に曲がり暫く歩いた先、右側の路地奥は「千手院・観音堂」(左)。室町時代に作られたという千手観音菩薩立像が祀られているのだが厨子に納められているため拝観することはかなわなかった。
ほどなく土浦宿最後の枡形に到着。左に曲がると「月読神社」(右)が鎮座しているが かつては賑わった神社も今はひっそり。 |
月読神社の先を右に曲がると「北門の跡碑」(左)が建てられているが ここは松平信吉が城主であった時に設けられた門で水戸街道の北口を守る重要な場所であった。
その先の新川橋を渡り十数分歩くと間の宿とも 土浦宿の一部とも言われている真鍋宿へと入っていく。
真鍋宿の手前に懐かしい景色が。旧筑波鉄道の廃線跡が水戸街道を横切っているのだが左手に「新土浦駅のホーム」(右)が残されている。昔はちょっと郊外へいくと どこの駅もこんな風景であった。 |
ほどなく街道は上り坂に差し掛かるが、その手前を右に曲がった先は街道一の名泉がある善応寺。その名を「照井の井戸」(左)と呼んでいるが三百数十年の間枯れることがなかったという。寛文10年(1670)に土浦藩主の土屋数直がこの銘水を木樋で城内まで通して飲み水にしていた。
善応寺は南北朝時代の創建だが江戸時代には土浦城主歴代の保護を受け寛文10年(1670)に土屋数直から観音堂を寄進されたという。現在の「観音堂」(右)は文化11年(1814)に再建されたもの。 |
街道に戻り「真鍋坂」(左)を上っていくと格子戸の家があり宿場時代の雰囲気をわずかに感じることができる。
旧水戸街道は坂を上った先で国道125号に合流。すぐに土浦第一高等学校前に出るが ここに国指定重要文化財の「旧土浦中学校本館」(右)を現役保存。明治37年(1904)に竣工。ゴシック様式を基調とした建物は当時の学校建築の基本形である凹型構造。 写真は中央の玄関部分だが学校とは思えない瀟洒な造り。
コメント:旧土浦中学校本館建物は毎月第二土曜日に一般公開されているが外観の見学だけであるなら受付で申し込むと許可される。 |
土浦一高を後にして国道を10分ほど歩いた先から旧街道に入ると「水戸街道松並木」(左)。 かつては松並木が多かった水戸街道であるが今はここだけとなってしまった。
ほどなく見えたのは江戸から20里目の「板谷の一里塚」(右)。左右両塚とも現存する貴重な一里塚で特に左側は一里塚の特徴をよく残している。
松並木の終わりごろに見かけた電燈建設記念碑は昭和4年(1929)に建てられたもので道標を兼ねており、側面に刻まれた行き先は「石岡経水戸 約四四粁 土浦経東京 約七六粁」。 |
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