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(5)我孫子宿あびこじゅく 東西1km弱に渡る宿場町であったが道路の拡幅工事が行われたため往時の面影は少なくなってしまった。
それでも旧脇本陣の萱葺き建物や江戸時代の道標を見ることができる。 一方、大正時代の一時期、白樺派の文士が手賀沼を見下ろす高台に居を構え執筆活動を行っていたが これらを巡る文学散歩も街道歩きの寄り道として面白い。
街道地図

平成23年3月3日

根戸の大坂東陽寺呼塚橋を渡り国道下を通って右折するとまもなく急な上り坂。 ここは水戸街道の中の難所 「根戸の大坂」(左)。今は舗装された道を難なく上れるが土道のころは難所だったろう。

ほどなく到着したお寺は「東陽寺」(右)。江戸時代には寺子屋を、明治に入ると早くも根戸学校をお寺の小坊主開校したという学問の寺。本堂前に庭掃除をする「小坊主が」(右)。いやいや、持っているのは箒ではなく筆ですかね。しかし筆にしては大き過ぎるのでやはり箒でしょう。

しだれ桃横断歩道橋東陽寺を出て数分、それはそれは見事に咲いた「しだれ桃」(左)。開いていた門から思わず1枚。もしかしたら「見てください」と門を開けておいてくれたのかもしれない。

街道はこの先での字に右へ曲がり国道6号を横断。さらに十数分歩くとJR常磐線に突き当たる。旧水戸街道は常磐線を斜めに横切っていたのだが今は「横断歩道橋」(右)で向こう側へ渡ることに。

平成23年3月10日

八坂神社角松本店歩道橋を渡って7〜8分、広い交差点角の神社は応永3年(1396)創建と伝わる「八坂神社」(左)。我孫子宿はこの辺りから。拡幅工事が行われた街道に昔の面影は見られない。ほどなく曲折した道の角の所に見えたのは「角松本店」(右)の看板。

今は割烹旅館だが江戸時代は松島楼と呼ばれた旅籠。 明治17年(1884)、女化け原の近衛兵大演習統監のため訪れた明治天皇の行在所(あんざいしょ)にもなった老舗だ。建物は江戸時代のものではない。

子神道道標我孫子宿本陣跡角松本店の前を左に曲がった先の右側に「従是子神道」(左)と刻まれた道標が1本。これは寛政元年(1789)建立で、1.5kmほど東の 子の神大黒天 への入口道標。

道標の少し先に「我孫子宿本陣跡標柱」(右)が建てられているが今はマンションに変わっており遺構は全く見られない。 と思ったら、なんと本陣の一部が残っていた。

旧本陣の離れ家我孫子宿旧脇本陣ちょいと遠いが 子の神大黒天 近くの旧村川別荘に「旧本陣の離れ家」(左)が移築されていたのである。大正10年(1921)、東京帝大教授であった村川堅固が旧本陣の離れ家を購入し移築、別荘の母屋としていたのであった。今は瓦葺きだが当初は萱葺きだった。

本陣跡の斜め向こうに見える萱葺きの大きな建物は小熊家が務めた「旧脇本陣」(右)。江戸時代末期に建てられた建物は今も現役で使われているため内部の見学はできない。

割烹旅館・鈴木屋成田街道分岐往時の面影少ない我孫子宿であるが旧脇本陣の少し先、三叉路の向こうに昔を偲ばせる風景がちょっとだけ見える。「割烹旅館・鈴木屋」(左)は明治12年(1879)の創業。

三叉路を右に曲がって5〜6分、次の三叉路は「成田街道分岐」(右)。旧水戸街道はここを左に曲がっていく。

ここで少々寄り道を。左に曲がらず真っ直ぐ30mほど歩き右の細い道から小学校前を通って大正時代の はけの道 へと下っていく。 はけの道:崖下の水辺に面した道。ここでは手賀沼ふれあいラインの1本山側の道。

我孫子は北の鎌倉とも呼ばれ柳宗悦や志賀直哉、武者小路実篤など白樺派の文士が移り住み執筆活動を行っていた。それらの跡をちょっとだけ散歩してみようと思う。
ちょっと分かり難いが道なりに下っていくと白樺派文学館や柳宗悦邸跡の表示が現れる。

天神坂旧志賀直哉邸書斎(復元)坂道を下ったら はけの道を右に曲がり数分歩くと、「天神坂」(左)と呼ばれる石段が山に向っている。 この坂を上った左側が三樹荘と呼ばれた柳宗悦居宅跡

また石段入口の右側は嘉納治五郎の別荘跡。ともに当時の建物は残されていない。

はけの道に戻り東へ3〜4分歩くと白樺文学館があり その斜め前が志賀直哉邸跡。脇の建物は復元された「書斎」(右)で、茶室風に作られた室内には遺品が展示されているそうだがこの日は見られなかった。

大正煎餅店子の神大黒天天神坂から白樺文学館に来る途中、「大正煎餅」(左)と書かれた看板のあるレトロな店が。店内に並んでいたのは昔懐かしいガラス瓶に煎餅。何種類か買い求めたが「みそせんべい」が事の他旨い。

白樺文学館の前を通り過ぎてしばらく歩き階段を上ると街道沿いに道標があった「子の神大黒天」(右)にたどり着く。この神社は足腰にご利益があるようで奉納されているのは絵馬ならぬかねのわらじ

旧村川別荘新館石塔群村川堅固が旧本陣の離れ家を移築し別荘としたが、昭和2年(1927)「新館」(左)を建築。今はこの新館を我孫子市が管理しており見学も可能。

はけの道周辺にはバーナード・リーチ碑や旧杉村楚人冠邸などもあり、我孫子市船戸には武者小路実篤の旧邸も。

寄り道前の成田街道分岐まで戻ると交差点の中に「石塔」(右)が多数。水戸街道はここを左に曲がっていくのだが間違えて真っ直ぐ進んでしまう旅人も多かったとか。

分断された旧水戸街道柴崎神社 分岐を左へ曲がりJR成田線の浜街道踏切りを渡って7〜8分、旧水戸街道は「JR常磐線で分断」(左)され消滅状態。ここは坂を下り地下道を通って遠回りしながら水道局前に出て旧街道に復帰。

水道局前から10分ほど、大きな注連縄の張られた鳥居があるが、ここは天慶元年(938)創建の「柴崎神社」(左)。 日本武尊が立ち寄ったとも平将門の祈願所であったとも伝えられている。久しぶりに見た神明造りは、やはり神社らしい。

七地蔵鯖大師柴崎神社隣の円福寺「鯖大師」(左)が。新宿(にいじゅく)の西念寺にも鯖大師が祀られていたが こちらの大師はしっかりと鯖を持っており、まさに鯖大師。

円福寺脇からさらに奥に入った東源寺に鎮座する地蔵は六地蔵ならぬ「七地蔵」(右)。云われなどは記されていないので深い意味は無いのだろうが見た瞬間??何か違う、と思ってしまう地蔵様だ。

本堂の前にそびえている大木は樹齢約250年という(かや)の大木

静かな静かな町並みの旧街道大利根橋街道に戻り暫く歩くと国道6号に合流。4〜5分歩いたら青山台入口信号から側道に移り、さらに旧街道に入っていくのだが旧街道は「静かな静かな町並み」(左)だ。

街道の突き当たりは利根川。堤防に上がると広大な河川敷が目に飛び込んでくる。江戸時代はかなり蛇行しており渡しのルートがはっきりしないが取手宿の長禅寺の前辺りに上陸していたようだ。左手に見える長〜い橋は「大利根橋」(右)。地図上で測定すると、なんと1300m。この長い橋を渡るのかと思うと気が重いな〜。

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