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***第10宿吹上宿***
吹上宿は千人同心街道と中山道が交差する(60mほどの区間が重なっている) 宿場で、中山道では間の宿であったが、
千人同心街道では正規の宿場というちょっと異色の宿場であった。
両街道が重複する辺りは立場・旅籠・料理屋などが軒を並べ大変な賑わいだったという。 |
街道地図 |
 松山宿を出てかれこれ1時間半、荒川の土手に到着したが今は渡しも無ければ橋も無い。上流の「大芦橋」(左)で対岸へ渡るのだが この橋がなんとも長い。
橋を渡り終えたら側道を下って旧道へ。その途中で見えた青い屋根の建物は「瑠璃山玉蔵院医王寺」(右)。説明碑によると「本堂は建立年代不明ながら歴史ある建物」なのだそうだ。 |
医王寺の先から旧道に復帰できるのだが地元の人はこの道を松山道と呼んでいる。 |
 旧道に戻って数分、街道際に「普門品二十万巻供養塔」(左)と刻まれた石塔がある。なんと、普門品を二十万回唱えた達成記念碑。普門品(観音経)を二十万回とは凄いね~。
すぐ先に見える鳥居と祠は「日枝神社と道六神」(右)。何気なく通り過ぎてしまいそうな神社だが道六神(どうろくじん)とは道祖神のこと。村の守り神だが旅人も守ってくれる神様。ちょっとお参りを。その先にある庚申塔は道標も兼ねており側面に刻まれている文字は「右 松山道 左 五反田かし」。 |
 数分歩いた先の「龍光寺」(左)には嘉禎2年(1236)銘の板碑があるということで探したのだが見つからない。寺の関係者に聞いたのだが「知らない ・ 気にしたことも無い」の返事。つれないね~
龍光寺のすぐ先にある「氷川神社」(右)は大芦村の鎮守として祀られた社。由緒によると、雷電社や稲荷社など十三社を合祀したとある。十三社も! ならば どんな願いにも効き目がありそうだ。 |
 10分ほど歩いた先の「秋池家の板塀」(左)がちょっと変わっている。舟板を転用した外塀なのだとか。大芦橋が出来る前の昭和初期までは 大芦の渡し があり渡船場には大芦河岸が併設されていた。その総元締めであった秋池家は何十艘もの舟を所有していたという。
秋池家からちょっと歩くと「吹上小学校木造校舎」(右)が見られる。昭和11年(1936)に建てられたという木造校舎はなんとも懐かしい。コメント:、残念ながら平成27年度に解体されてしまいました。 |
街道はこの先のJR高崎線踏切りを渡り狭い道を進むと僅か60メートルほどの短い区間だが旧中山道と重複している場所がある。 |
 参勤交代の諸大名が行き交ったこの辺りは 間の宿 として大変賑わった場所。加賀藩・前田家の行列は宿場の中ほどにあった「東曜寺」(左)で休憩し茶の接待を受けるのが慣わしだったという。
東曜寺の並びにある「吹上神社」(右)は元々は山王社であったが神仏分離令で日枝神社に改称。明治40年(1907)に付近の氷川社と稲荷社を合祀し吹上神社に改称。 今でも年配の人達は山王様と呼んでいるとか。 |
 東曜寺先の三叉路を左に入って行く道が千人同心街道であるが その手前左奥に鎮座しているのは「いぼ地蔵」(左)。このお地蔵さんは 仲町のいぼ神様 として地元民に慕われており8月の地蔵講祭りの日は大変な賑わいとなる。
三叉路を右に曲がる道が旧中山道で、その先の吹上本町交差点際に「中山道道標」(右)が建てられてる。 |
 千人同心街道に戻り数分歩くと木製の「佐賀橋」(左)を渡るが よく見ると擬木の欄干であった。下を流れる川はかつての荒川本流。江戸時代の河川改修で本流から切り離され今は元荒川と称している。
佐賀橋の100mほど上流の「新佐賀橋」(右)は土木学会選奨の土木遺産。昭和8年(1933)に架けられたアーチ型の美しい橋だが、かつて、行田にあった陸軍演習場の視察に訪れる皇族が渡るため豪華な外観の橋に。 |
住宅地の中を通っていた旧道は国道17号を横断した先で県道に合流。 |
 住宅地の中を通っていた旧道は国道17号を横断した先で県道に合流。ほどなく到着した場所は「本倉稲荷神社」(左)。鳥居が連なった景色は豊川稲荷を思い出すがそれもそのはず。豊川稲荷から勧請されたお狐様が居るのだという。そのお狐様の霊験は大変なものだとか。
まもなく「がんがら大橋」(右)というちょっと変わった名前の橋を渡るが下を流れる川は「がんがら落し」と呼ばれる農業排水路。何故がんがら? 「雁柄落し」と表記したこともあったそうだが。
橋の中ほどに行田馬車鉄道の絵碑が埋め込まれている。この道筋には大正末期まで吹上~行田間に馬車鉄道が走っていた。 |
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