|
***第9宿松山宿***
松山城の城下町として発展してきた松山であったが慶長6年(1601)、城主の松平忠頼が浜松城に移封となり松山城は廃城。
町の賑わいはしだいに松山本郷(現・材木町)周辺に移り、千人同心街道が整備されると宿場町に発展。 千人同心も松山宿で
帰りの昼食をとっていた。 しかし、鉄道や幹線道路が宿場町から少し外れたため町の賑わいが次第に弱くなり今は静かな
町並みとなっている。
コメント:昭和29年に市制を施行したが、その際、愛媛県の松山市と同じ地名が認められず東松山市となった。 |
街道地図 |
 東松山橋を渡って田んぼの中の土手道を歩き、国道407号を横断するとその先も「田んぼの中の一本道」(左)。
かれこれ10分ほど歩き県道を横断すると将軍塚古墳の案内表示が。右へ曲がって1~2分歩くと「将軍塚古墳碑」(右)と説明板がある。県内有数の大きさを誇る前方後円墳で 全長は115m。樹木が生い茂り全体像が見渡せないのが残念。もっと残念なことは前方部の上に忠魂碑がドーンと立ち後円部の上には神社があるではないか。古墳が台無しだ。 |
 将軍塚古墳の隣に「無量寿寺」(左)という寺院があるが、ここは野本基員を初代とする野本館跡。野本基員は平安時代の公卿藤原基経の警護をしていた片田元親の子で源頼朝の信頼厚かったという。
無量寿寺を出たら国道407号を横断して長閑な田舎道を5~6分、街道際に鎮座しているのは「八幡神社」(右)。神社の由緒は分からないが10月に行われる上野本の獅子舞は江戸時代から続く伝統ある行事で市の無形民俗文化財。 |
 若松町一丁目五差路の歩道際に鎮座している「地蔵尊」(左)、テントの屋根が付けられ大切にされているようだがセメントを塗りたくって補修しているため無残な姿に。余計なことをしてくれたものだ。
この交差点には変わった名前の神社が。その名は「七鬼神社」(右)。地元の人はヤクジン様(厄神様?)と呼んでいる。
若松一丁目五差路からは県道66号を北上。途中で旧道を通り再び県道に合流したらちょっと寄り道を。 |
 街道際にある大きめの「馬頭観音」(左)は慶応元年(1865)の建立。その後ろに立つ庚申塔は元文元年(1735)。
馬頭観音の奥に「下沼」(右)と呼ぶ大きな池があるが、もともとあった溜池を整備して公園にしたもの。女沼とも呼ばれているが、それは池の中の島に弁財天が祀られていることから。この先にある上沼は男沼と呼ばれ
その近くの松山神社と下沼(女沼)の弁天様を拝むと恋が成就するのだとか。 |
 今は静かな町並みになってしまった松山宿であるが下沼から5~6分歩くとかなり立派な「見世蔵」(左)が。その向かいに見える「島田医院」(右)は大正初期に建てられた洋館で 元は旧松山郵便局の局舎であった。
この辺り(本町2丁目~本町一丁目)にはこの他にも見世蔵や古民家が何軒かあり かつては賑やかな街道だったのだろう。 |
 宿場街の終りに鎮座する「八雲神社」(左)は彫刻が素晴らしい。安政6年(1859)の再勧進普請の際、彫工・飯田仙之介が弟子に技を競わせて製作されたもの。周囲4面とも神話の一場面を題材にして彫ってあるが背面の「天照大神の天岩戸の場」が分かりやすい。
八雲神社の前を奥まで入ると突き当りが「松山神社」(右)。康平6年(1063)、氷川神社として創建されたという歴史ある神社で江戸時代は松山宿の総鎮守であった。 |
 神社から戻る途中に見えたのは「上沼」(左)、別名を男沼。上沼と下沼、松山神社と弁財天、そして男沼と女沼、上手く繋げたね~。
上沼の先に鎮座する「日吉神社」(右)は由緒によると文化15年(1818)に近江国日吉山の日吉山王大権現を勧請して創建、「日吉町の町名はここより始まる」と記されている。ところが扁額には日枝神社と。由緒の追加書きに「呼称を日枝から日吉に改める」とある。なんだか複雑だね~。 |
 長閑な道をしばらく歩いていると街道際に「お地蔵様」(左)が。宝暦2年(1752)に建立された地蔵尊で道標を兼ねているのだが「行田海道?里 熊谷海道三里」と海道が使われた道標は珍しい。コメント:享保元年(1716)に新井白石らの提唱によって「○○海道」から「○○道中」に改められたが、その端境期頃に建立されたので海道が使われたようだ。
ほどなく到着した場所は覚性寺。天慶3年(940)創建という古刹だが松山城落城の際の兵火で伽藍一切が焼失。しかし薬師如来一体が難を逃れたという。そのお薬師様を祀っているのが「薬師堂」(右)。 |
覚性寺から先はちょっと単調な歩きになってしまうが、それでも飽きない程度に馬頭観音が。 |
 国道407号を横断した先の「熊野神社」(左)は由緒によると「平将門追討のために東国へ向かった藤原秀郷が、夢のお告げがあった場所に鏑矢を立て熊野神社を祀ったのがはじまり」 なのだそうだ。
街道は東松山市から熊谷市に入り、さらに県道66号と別れて鄙びた道に入って行くと三叉路向こうの覆堂の中に「如意輪観音と地蔵尊」(右)が仲良く並んでいる。頬杖の観音様はいつ見てもいいね~。 |
街道はこの先の切通しを通り、道路改修碑の脇を左に曲がっていく。 |
 曲がってすぐに「春日神社」(左)の鳥居があるが鳥居脇の大鳥居改築記念碑に神社創建の経緯や千人同心とのかかわり、鳥居の再建のことなどが詳しく刻まれている。
その他にも この地は弥生時代から人が住み、平安時代には牧場まであったこと。またこの付近の道は大明神坂と呼ばれる急坂の難所であったが大正時代に安全な道が完成したことなどが。
街道はこの先の坂道を下り、三階沼の脇を通り、「馬頭観音」(右)の前を通って再び先ほど分かれた道に合流。 |
田んぼと住宅が混在する長閑な道を15分、長島記念館があったので休憩がてらの寄り道を。 |
 元埼玉銀行頭取の長島恭介が収集した美術工芸品を展示しているのだが、むしろ築280~290年という「長島家住宅」(左)や大正9年(1920)に建てられたという石蔵の方に興味がある。
長島記念館を出たらその先は広大な河川敷の荒川。かつては渡しだったが今は上流の「大芦橋」(右)を渡って対岸へ。この橋が長いんだ。渡り切るのに20分近く。しかも橋の上は真っ直ぐ歩けないほどの強風。歩道と車道の間にガードレールが無いため怖かったー! |
前の宿場高坂宿へ戻る 次の宿場吹上宿へ 表紙へ戻る
|