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千人同心街道  道中記

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***第1宿拝島宿***
拝島宿は元々は多摩川対岸に築城された滝山城の城下町的な存在であったが千人同心が日光勤番の任務に
当たるようになると人馬継立場となり宿場へと発展。東西1kmの中に上、中、下の三宿があり旅籠6軒の
ほか荒物屋、鍛冶屋、居酒屋、菓子屋など56軒もの商店(江戸時代末期)が並んでおり大変賑わっていた。
拝島という地名は、昔々、多摩川の中州(島)に大日如来像が流れ着き 村人が尊像を御堂に安置し拝んだこと
から起こったと云われている。
街道地図

平成27年1月5日

八王子・千人町から出発した千人同心街道はひよどり山を越え「多摩川」(左)を拝島の渡しで対岸に渡ったが今は拝島橋で対岸へ。橋を渡った先の左側、児童公園の中に「拝島の渡し説明碑」(右)があり渡しに関することが記述されている。 それによると渡しは拝島橋の上流100mほどの所にあった。

明治以降も盛んに利用され、なんと、川越ー八王子間の定期バスもこの渡しを利用していたという。ここに本格的な橋が架けられたのは昭和30年(1955)というから比較的最近のこと。

橋を渡ったら数分先の歩道橋の下を左に曲がり中学校のグランド脇を歩くと旧道に復帰できる。

旧道に入って数分、奥多摩街道にぶつかったら左へ曲がっていくのだが ここが東側の枡形。ここでちょっと寄り道を。左へ曲がらず真っ直ぐ路地へ入り「円福寺」(左)へ。これから行く大日堂の大日八坊の一寺として滝山城主北条氏輝の家臣であった石川土佐守が天正元年(1573)に再建。創建年代は不明。

円福寺の隣も大日八坊の一寺で、地元の人から「拝島大師」(右)として慕われる本覚院。正月三が日は参拝客で大変賑わうが この日も屋台が出ており まだまだ人出がありました。

隣の大日堂は天暦6年(952)の創建と伝わる。その後、滝山城の鬼門除けとして石川土佐守によって天正元年(1573)に現在地に建立されたが、この時、大日八坊と呼ばれる八ケ寺を同時に建立。現在見られる「大日堂」(左)は享保17年(1792)に再建されたもの。

参道入り口の「大日堂仁王門」(右)は建立年不明だが、かの蜀山人も見ているようだ。門の掲額を見た蜀山人は調布日記の中に「宮方の書にやいずれも高貴なる人の書なるべし」と記しているという。

大日堂の参道階段下にある古井戸は「おねいの井戸」(左)。 石川土佐守の娘「おねい」の眼病が治るよう大日堂に祈り さらにこの井戸水で眼を洗ったところ良くなったとか。

大日堂隣の「日吉神社」(右)は大日堂の守護社として建立。寛保元年(1741)に山王大権現の称号を賜っているが明治初期の廃仏毀釈で社号を日吉神社と改称。本殿と拝殿は安政2年(1855)に再建されたものだが彫刻が素晴らしい。
特に本殿は絢爛豪華に彩色されており見入ってしまう。

街道に戻りしばらくは「旧拝島宿の町並み」(左)を歩くのだが宿場時代の面影を探すことは難しい。東西入口の枡形や、中宿公会堂・バス停上宿などでかろうじて往時を想像することができる。

西の枡形を曲がった所の「商店の店先」(右)で拝島宿という文字を見つけました。

中宿の「普明寺」(左)も大日八坊の一寺。
創建当時は8カ寺であったが現在残っているのは普明寺、本覚院、円福寺の3寺のみ。山門を入ると丹頂鶴が2羽遊んでいるではないか。ビックリ! でもこの鶴は動かんのです。

中宿公会堂の脇を入った奥の「龍津寺本堂」(右)には素晴らしい天井板絵と杉戸絵が有るということだが拝観できないのが残念。

街道に戻り4~5分、右側の路地を入った突き当りは「拝島天神社」(左)。 文禄年間(1592~96)に甲州街道沿いの谷保天満宮(東京・国立)から分霊されたと伝えられている

再び街道に戻るとすぐ先が右に曲がる枡形道。右に曲がって100mほど歩くと左へ入る細い道があるが こちらが旧道。
旧道を出た所はその名も「三叉路」(右)という名の交差点。ここで奥多摩街道は左に曲がっていくが千人同心街道は真っ直ぐ。すぐ先のバス停名は上宿。

ほどなく小荷田の交差点に到着するが その先は目いっぱい広くなった国道16号。10分ほど歩いて武蔵野橋南交差点まで来たら右へ曲がっていく。

200mほど歩くとJR青梅線が行く手を遮っているが その手前左側の高台に見えるのは「共光稲荷神社」(左)。説明書きによると明治39年(1906)創建とあるので比較的新しいお稲荷さんだ。

街道は青梅線で分断されてしまったので右に曲がり拝島駅の自由通路を通って向う側へ。
分断された位置まで戻り右へ曲がるとすぐに「日光橋」(右)。何故日光か?この街道は日光へ向かうので別名・日光裏街道、そこに架かる橋なので日光橋。下を流れる川は玉川上水。

日光橋を渡り数分歩くとその先は米軍横田基地。基地の中を歩くことはできないのでしばらくは国道16号を歩くことになるが ちょっと味気ない。見つけたのが「わらつけ街道」(左)の表示。ここを歩いてみようかと。聞いたことがなかった街道だが面白い伝説がある。

昔々、田助という若者がサムライの形をした藁人形を店先に飾っておくと立派なお侍が通りかかり、「見事な人形だ。わしの家来になってもっと沢山作ってくれぬか」 田助は近郷から大量の藁を買い付け侍人形を作ったのだが、その藁を運んだ道が「わらつけ街道」と呼ばれるようになったという。戦が始まると侍の形をした大量の藁人形を城前に並べたところ、これを見た敵は「こんなに大勢の兵士がいては戦にならぬ」と早々に退散してしまったのだとか。 

わらつけ街道はJR八高線と並行して2.5kmほど続くがその先は横田基地の外周をぐるっと回って箱根ヶ崎宿へ。

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