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***第7宿坂戸宿***
坂戸宿の開設は天正12年(1584)に河越城代大道寺駿河守政繁が元坂戸(現北坂戸)の39軒の農家を移して集落を
整備したのが始まり。宿の発展は現・坂戸小学校付近(下)から坂戸神社方向(上)へと進んだことから「さかさ宿」と
言われていた。
八王子千人同心が日光勤番に行く際の最初の宿泊地であった。 |
街道地図 |
東武越生線・東上線の踏切を渡り数分、街道際に鳥居が見えたがここは「坂戸神社」(左)。元は白髭神社だったが八幡様など五社を合祀。そのため五社様と呼ばれ「何にでも効く神様」と人気がある。
この先から坂戸宿上宿となり坂戸小学校前の追分まで約1kmに渡って宿場街であった。かつては 三と八 の付く日に市が開かれ、後に店売りの商店街に発展。賑わった宿場であったが今はちょっと寂しい「旧宿場街」(右)。 |
坂戸神社から数分、日の出町交差点の角は「旅籠角屋跡」(左)。千人同心が日光勤番に行く際の最初の宿泊地が坂戸であった。当初は近在の農家に分宿していたが享保8年(1723)に角屋ができたことで役付き隊員たちは旅籠に泊まることができたという。
交差点手前右側の背の高い御堂の中に「延命地蔵」(右)が鎮座。 詳しいことは分からないが立派な御堂にのぼり旗まで奉納されており地元の人々に大切にされているのだろう。 |
宿の中ほどで右に入った奥の「永源寺」(左)は文禄元年(1592)の創建。 徳川家康配下の旗本・島田治兵衛尉重次が天正13年(1585)頃にこの地を領有し統治。ここに一寺を建立して島田家の菩提寺にしたという。
街道に戻り坂戸市文化会館前まで来ると坂戸宿の事を記した解説板が建てられており、宿の発生・千人同心との係わりなど詳しく記されている。その先は追分で坂戸小の前にあったのは「追分道標」(右)。この道標は承応元年(1652)に建てられたもので刻まれている文字は正面に「左日光道 松山道」、右側に「右よしミみち」と。 |
道標に従って左に曲がり数分歩いた場所にあったのは 坂戸の薬師さま として地元民に親しまれている「薬師堂」(左)。 ここは応永年間(1394~1428)に始められた中武蔵七十二番薬師巡礼の十番札所。
街道はこの先で消滅しその先も住宅公団(現UR)の宅地開発によって全く消滅。北坂戸団地の間をしばらく歩くとそれらしい道が。田んぼの中の道に入ると「昔を偲ぶよすがの場所」(右)がある。消えてしまった旧道のことを後世に伝える旧日光街道の碑と雨降山灯篭・馬頭観世音供養塔、それに吉田の松などで構成。 |
よすがの場所も旧道があった場所ではなく その前後も旧道がどこであったかはっきりしない。 とりあえず県道を横断して「田んぼ際のそれらしい道」(左)を歩くことに。
国道407号に出て越辺川に架かる「高坂橋」(右)を渡ると東松山市に入るが さらに15分ほど歩くとやっと旧道に復帰できる。 |
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