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***第4宿扇町屋宿***
青梅から川越へ向かう新河岸街道と千人同心街道が重なる扇町屋は古くから市が開れるなど人の往来が多かったが、
千人同心のための宿次場が整備されると戸数90余戸、 道幅8間余り、長さ6町ほどの宿場町に発展。三と八の付く日に
穀物などを売る六斎市が開かれ大変賑わっていた。
八王子千人同心は日光に向かう初日にここで昼食をとり、帰りの三日目は一泊していたという。 |
街道地図 |
二本木宿を出た街道は入間市博物館の先で旧陸軍狭山飛行場(現在は武蔵工業団地)のために消滅。
2カ所目の飛行場による旧道の消滅。武蔵工業団地の外郭を迂回して旧道復活地点まで来ると「狭山開墾記念碑」(左)と刻まれた石碑が建てられている。 詳しいことは分からないが江戸時代から続く開拓・開墾の歴史の一コマだろう。
この先15分ほど歩くと 「国道16号」(右)に合流。思い切り広くなった国道16号を15分ほど歩き五差路を真っ直ぐ進むと次の宿場が近い。 |
ほどなく青梅道が合流してくるが その合流点に地蔵堂と馬頭観音及び「扇町屋上町の道標」(左)が。道標(右側の石塔)は安政3年(1856)に建てられたもので「青梅 みたけ山道 婦し山(富士山) 高尾山 ・・・」などの文字が刻まれているようだが今は判読が難しい。馬頭観音や地蔵も道標を兼ねている。
この辺りから扇町屋宿が始まるのだが往時の面影少ない街道沿いでひときわ大きな「古民家」(右)が存在感あり。 |
街道の右奥に鎮座するのは扇町屋の産土神「愛宕神社」(左)。祀られているのは新田義興の霊。
多摩川河口の 矢口の渡し で謀殺された義興の首は入間御所で首実検されたのち当神社の社前に埋められたが、その後、祟りを恐れ正平16年(1361)に義興公を祭神として合祀。
義興の従者13人の首は周辺に埋められたが、散在していた13の塚を神社境内に集め築かれたのが「十三塚」(右)。 |
境内の端れに大切に保存されているのは「初代首塚の松」(左)。
正平13年(1358)、入間御所で首実検された義興の首は拝殿前に葬られ、その目印に松と杉の枝を挿しておいたところ根付いたのがこの松だという。残念ながら台風の被害を受け枯死。
参道入り口の鳥居脇にある石碑は「芭蕉句碑」(右)。
ひらひらと あぐる扇や 雲の峰 芭蕉 |
街道に戻り数分、道はY字路となるが その手前の立体駐車場脇に享和2年(1802)建立の「扇町屋下町の道標」(左)がある。元々は街道沿いにあったもので正面に「道祖神」、側面に「かわこへ入間川 道」「まつ山 日こう 道」等と。
その奥に見えるのは「志茂町の子育て地蔵」(右)。説明が無いため詳しいことは分からないが のぼり旗が多数掲げられていることから地元の人達には大切にされているようだ。 |
Y字路を左へ曲がり丸広百貨店横を進むと下り坂になるが この坂道を「黒須坂」(左)と呼んでいる。しかしこの先の黒須の人達は扇町屋に向かっているので町屋坂。
丸広百貨店先を右に入った奥の旧豊岡小学校の跡地が温故公園。その一角の小高い所に「道標が1本」(右)。
元々はこの先の河原町交差点近くにあったもので刻まれている行き先は「北日光道」「東江戸 ***** みち」。 |
千人同心街道は黒須坂を下って西武線のガード下を通り河原町交差点を横断して霞橋を渡り国道299号に合流。 |
霞橋を渡って数分、歩道橋の横に「旧黒須銀行」(左)の建物が保存されている。明治42年(1909)に黒須銀行本店として建てられたもので、その後、埼玉銀行豊岡支店として昭和35年(1960)まで使われていた。
道路を挟んだ隣は文化15年(1815)創業の繁田醤油。今は地元中心の商売をしているようだが戦前は皇族も訪れたという名門企業。街道沿いの立派な「長屋門」(右)はその名残りだろう。 |
街道は繁田醤油の長屋門前を通って国道299号を北上。10分ほど歩いて入間川に架かる「豊水橋」(左)に到着。
豊水橋の上流側に 根岸の渡しがあったのだが今はその痕跡を探すことは難しい。
渡し だったこの地に橋が架けられたのは大正9年(1920)。豊岡町(入間市)と水富村(狭山市)の請願により造られたもので「初代豊水橋」(右)は長さ300mの木橋だった。
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豊水橋を渡ると狭山市。次の宿場である根岸宿が近い。 |
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