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***第11宿忍宿***
忍宿(おしじゅく)は関東七名城の一つと謳われた忍城の城下町として発展した宿場だが、江戸時代後半から足袋の生産が
盛んになり有数の足袋産地に発展。街道沿いには当時の繁栄ぶりが伺える明治から大正・昭和初期に造られた足袋蔵が
何棟も残っており大切に保存されている。 |
街道地図 |
吹上宿を出てがんがら大橋を渡り、かつて「馬車鉄道が走っていたという道」(左)をテクテクと30分。日蔭が全く無いので夏だったら熱中症間違いなしだ。
街道際に背の高い「常夜灯」(右)が1基。新兵衛地蔵尊と記されているが、はて? 地蔵様が見当たらない。近所の人に話を聞くと「この先の清善寺に同じ物がもう一つあるよ」と言う。
同じ常夜灯がもう1基あることは分かったが地蔵様は?
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数分先の 「遍照院」(左) は寛仁年間(1017~21)の草創と伝わる古刹。堂内に安置されている薬師如来座像は奥州平泉城主 藤原秀衡の守り本尊だった。秀衡が眼病平癒を薬師如来に願ったところ快癒。薬師様の御堂を建てようとしたところ夢枕に薬師如来が現れ「忍に仏縁の地がある」とのお告げ。そこで、薬師如来を牛車に載せこの地へ運び薬師堂を建立。
街道に戻り次に向かった先は「水城公園」(右)。忍城を囲む沼地はほとんど埋め立てられたがこの地は公園として整備されている。 |
水城公園から10分ほど歩くと忍城址に行かれる。文明10年(1478)頃、成田顕奏によって築城された「守りやすく攻めにくい」という難攻不落の名城は天正18年(1590)の
石田三成による水攻めにも耐え水に浮く城かと恐れられたという。 |
寛永16年(1639)、時の老中安倍忠秋が入城し大改築。孫の正武の代に「御三階櫓」(左)を建設し城の面目を一新。残念ながら明治6年(1873)に解体されてしまったが昭和63年(1988)に再建。
ここで余談を二つ。 御三階櫓の屋根に乗る鯱鉾は大きさ1.8mで、日本最大級。 この看板、なかなか粋ですね~
東門を入った奥の「鐘楼」(右)に提げられた梵鐘は文政6年(1823)に桑名から移封となった松平忠堯が桑名から持ってきた鐘だそうです。(鐘楼の鐘はレプリカで、本物は併設されている博物館に展示してある) |
街道に戻り数分、古色蒼然とした2階建ては昭和初期に荒井八郎商店の「足袋原料倉庫」(左)として建てられたもの。 この場所に曳家され、今は陶芸工房として再利用。
その先数分、懐石料理・彩々亭は「旧荒井八郎商店の建物」(右)で昭和初期の建築。事務所兼住宅であったが迎賓館的な存在でもあったことから足袋御殿とも呼ばれていた。 |
その先の交差点を左に曲がったすぐ右側の「高源寺」(左下)は忍城の家老・正木利英が建立。 |
天正18年(1590)、豊臣方の長束正家の軍勢と戦った正木利英は、戦後、武士の身分を捨て かつて戦を行った忍城佐間口近くに高源寺を建立し敵・味方双方の戦死者を弔ったという。
山門を入った左側に正木利英の墓と石碑が。
高源寺対面の門は忍城の守護神として享保5年(1720)に創建された「佐間天神社の神門」(右)。ここは忍城佐間口があった場所で正木利英が長束正家と死闘を繰り広げた場所でもある。 |
街道に戻り数分、白亜の蔵が見えるがここも「足袋蔵」(左)。
ほうらい足袋の商標を持つ奥貫家が大正から昭和初期頃に建設したと伝えられている。
この他にも多数の足袋蔵が現存しているが詳細はこちらのホームページで。
足袋蔵の先で左に曲がり清善寺へ向かったのだが、その途中にあったのが「新兵衛橋」(右)。造られたのは昭和7年(1932)ということだが当時はまだ埋め立てが行われず川か運河があったのだろう。 |
その先に冒頭の写真と同じ常夜灯が見えるが、ここは永享12年(1440)に当地の豪族成田刑部顯忠が草創したと伝わる「清善寺」(左)。ここに新兵衛地蔵があるのだが撮影に失敗したのでこちらを。
昭和6年(1931)、大沢証券の大沢龍次郎が失業対策事業として無縁仏供養塔を造立。頂きに父・新兵衛所有の地蔵を納めたという。
街道に戻り次に向かった場所は「行田八幡神社」(右)。街道から一歩裏道にある。由緒によると源頼義・義家が奥州討伐の折りこの地に滞陣。その時、戦勝を祈願して勧請したと伝えられている。 |
街道に戻り数分、交差点向う側の建物は「旧 忍貯金銀行」(左)。鉄筋コンクリート2階建てで繊細な装飾の入った建物は昭和9年(1934)の竣工。戦前の本格的銀行建物として国登録有形文化財。
銀行の前に「高札場跡碑」(右)が建てられているが宿場時代はこの場所が一番の賑わいだったのだろう。ここは忍藩の全ての里程の起点とされていた。 |
街道はこの交差点を右へ曲がるのだが左へ曲がって寄り道を。路地を入ると「旧 牧野本店店舗」(左)が見える。大正13年(1924)頃に建てられたという見世蔵で、他に工場跡や足袋蔵も。隣の工場跡が「足袋と暮らしの博物館」(右)として一般公開(土日祝のみ)されており行田足袋の歴史や製造実演も見られる。
足袋博物館入口横の石碑は代官所跡碑。忍藩は全国各地に飛び領地を抱えていたが それらの領地から年貢取り立ての仕事を行っていたのがこの代官所だった。 |
街道に戻り数分、埼玉県信用金庫の辺りが「忍宿本陣跡」(左)で本陣を務めたのは樋口太郎三郎家。明治4年(1870)の大火で立派な本陣建物及び東隣の脇本陣とも全焼。残念。
信用金庫の前に建てられている石碑は御本陣跡碑。
その数分先の見世蔵は「旧 山田清兵衛商店」(右)。 明治16年(1833)に呉服商の見世蔵として建てられたもので、足袋蔵として使われたが現在は 十万石ふくさや の本店。
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街道をさらに7~8分、大長寺の山門脇に「芭蕉句碑」(左)が。元々は桜町にあったものを移設。
刻まれている句は 古池や 蛙飛びこむ 水の音 芭蕉翁
芭蕉句碑の後ろに鎮座しているのは「大露仏」(右)。
忍城藩主・阿部豊後守家から享保年間に大仏が寄進されたが先の大戦で徴発されてしまい山門脇に大露佛跡碑だけが寂しく立っていた。しかし平成8年(1996)に再建されたのです。よかったよかった。 |
街道は大長寺の手前を左に入って行くのだが100mほど歩くと街道際に「行田馬車鉄道発着所跡」(左)と刻まれた石碑が1本。ここは吹上駅まで行く馬車鉄道の本社発着場。明治34年(1901)に開通し最盛時には一頭引き四輪馬車が一日14往復走っていたという。
その先の路地を入った奥の愛宕神社に「行田酉之市起源碑」(右)が建てられている。起源は明治40年(1907)と比較的新しく開催日も12月6日の一日だけだが、この日は熊手を求める客で大変な混雑。 |
街道に戻りその先の丁字路を右に曲がると「忍城長野口御門跡碑」(右)が建てられている。忍城十五門の一つで船着き場があったことから人の出入りが多く大変賑わった場所。
すぐ先に「船着き場跡碑」(右)が忍川に面して建てられている。この船着き場から江戸まで水路が開かれていたことから城下町行田の玄関口として繁栄し幕末には番所や高札場まで設けられていた。 |
忍川を渡り鄙びた雰囲気の残る旧道を歩いていると文化2年(1805)創業という「横田酒造」(左)がありました。日本橋の酒問屋で修行した横田庄右衛門が開いた造り酒屋で一押しの銘酒は 「日本橋」。
街道は横田酒造の先で左に曲がり秩父鉄道の踏切を渡っていく。
踏切りのすぐ先の「長久寺(ちょうきゅうじ)」(右)は忍城を築いた成田顕奏が鬼門鎮護の目的で創建したという。 本堂は何度か火災で焼失しているが現在の堂宇は弘化5年(1848)に再建されたもの。 |
長久寺隣の「久伊豆神社」(左)は忍城築城の際、鬼門の守護神として文明年間(1469~87)に創建されたもので裏鬼門にあたる城の南西大宮口にも久伊豆(ひさいず)神社を置いている。
隣の「赤飯(しゃくじき)伊奈利大社」(右)は久伊豆神社の摂社だが摂社とは言えないほどの立派な神社。
稲荷ではなく伊奈利、神社ではなく大社というところがいいね~。 |
このさきしばらくは県道7号をテクテクと。到着した場所は県道から一歩入った真観寺。 |
当寺の「観音堂」(左)に収められている聖観音像は平安時代末頃の造立とされ、お顔にふっくらした微笑みをたたえているという。ぜひ拝観したいものだが御開帳は12年に一度の午年。かなり先だな~
真観寺の建物はそれぞれに長い歴史を持っている。観音堂は正徳2年(1712)の建立、仁王門は元文4年(1739)、本堂は忍城の仏間として建てられたものを寛永11年(1634)に移築。
寺裏手の小さな丘は7世紀前半頃に築造されたという「真観寺古墳」(右)。全長112mの前方後円墳で国指定史跡。 |
街道に戻りしばらく歩くと「武蔵水路」(左)を横断するが、この水路は利根川の水を荒川に流すための水路。変わっているのは見沼代用水など何か所かの川と直交しているのである。 川と川が直交?
既存の川の下を武蔵水路が横切っているんだって。
もう少し歩いたらちょっと寄り道を。武州荒木駅近くの「天州寺太子堂」(右)に国指定重要文化財の聖徳太子立像があるということだったが ここも聖徳太子例大祭以外は拝観不可。残念だね~。
例大祭は聖徳太子の命日にあたる2月22日です。 |
この先は天満宮や稲荷神社に寄り道しながら新郷宿へ。 |
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