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千人同心街道  道中記

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***第8宿高坂宿***
戦国時代の豪族・高坂刑部太輔が高坂館を建設したことから、その周辺に人家が集まってできた町が高坂であった。
江戸時代に入ると川越・児玉往還の宿次場として整備され、さらに千人同心街道も高坂宿を通ったことから江戸時代後半~明治に
かけては大変な賑わいを見せていた。 しかし東上鉄道(現・東武東上線)の開通によって宿場の機能が失われ今は静かな町並みに。
街道地図

 平成27年2月16日

坂戸宿を出て北坂戸団地の中を通り、田んぼの中の道を歩き、国道407号に入って越辺(おっぺ)川に架かる高坂橋を渡り、しばらく国道を歩いて かれこれ1時間。

国道から左に入る道が旧道で ここで「川越・児玉往還と合流」(左)して高坂宿へと入って行く。すぐに九十九川に架かる「坂下橋」(右)を渡るとその先は緩い上り坂。坂の途中にある覆堂に地蔵尊と庚申塔が仲良く並んでいる。

坂を上り切って旧高坂宿に入ったらちょっと寄り道を。
向かった先は仁治2年(1241)、建武5年(1338)など600年から700年も前に造られた「板碑(石卒塔婆)(左)があるという香林寺。あることはあったのだが残念ながら本堂の新築工事中のため写真のような状態に。

街道に戻り昔の面影残る道を歩いていると街道際に「六地蔵」(右)が鎮座。六道の苦しみを救ってくれるというお地蔵様はそれぞれに異なった御姿で村人や旅人を見守っている。覆堂の外にあったのは高さ50センチほどの可愛らしい馬頭観音

県道交差点まで来たら右に曲がって5分ほど歩き「高坂神社」(左)に寄り道を。
歴史は大変古く、大同年間(806~810)にこの地を通った坂上田村麻呂が、日本武尊がここに陣屋を置いたという故事にちなみその旧跡に社を建立し八剣(やつるぎ)明神社と号したことにはじまるという。

県道交差点まで戻るとその先も旧宿場街だが昔の面影は無いものの「旧街道 そんな雰囲気が残る町並み」(右)が続く。

ほどなく右へ入る細い道の両側に道標が1本ずつ立っているがここは千人同心街道と川越・児玉往還が分かれる追分。
手前の「道標」(左)は嘉永年間(1848~54)に建てられたもので正面に刻まれている文字は奉納経拝礼供養塔。右側面に「右 松山熊谷行田  左 小川 八幡山 道」。

向う側の「八王子道道標」(右)は安永10年(1781)の建立で、右側面に刻まれた行先は「右 日光 よしみ いわどの 道」左側面の行先は「左 ちちぶ ひき いわどの 道」。

千人同心街道は道標に従って右に入り都幾川に向かって下って行くのだが、この日は道路工事のため人の往来もダメだという。

「高済寺」(左)に寄り道したかったので細い道を入った先で都幾川ではなく右の道へ。
高済寺は戦国時代に高坂館(やかた)があった場所。 江戸時代に入ると徳川家康に従って関東入りした加賀爪氏が1万石で高坂藩を立藩。この地に陣営を構えたが その時の菩提寺が高済寺であった。

本堂裏手の高台に「加賀爪氏累代の墓」(右)がある。長久手、関ヶ原の戦 等に功があり江戸町奉行・寺社奉行などを勤めた加賀爪家であったが直澄の代に領地問題を起し領地没収・廃藩。

高済寺からちょっと回り道して都幾川河川敷のリバーサイドパークに入り先ほど行かれなかった場所まで来ると、なんと「江戸時代のままの石橋」(左)が。
説明板によると、「高坂の渡し場の手前の水路に架けられたもので往時の姿のまま」だという。

その近くにある元治元年(1864)に建立された「石橋供養塔」(右)は道標も兼ねており、「松山 行田 熊谷 道」と刻まれている。

高坂の渡し場は明治時代に無くなり、その場所に沈下橋が架けられたのだが河川工事によってこれも平成のはじめに消滅。 今は痕跡も見当たらない。やむなく。「東松山橋」(左)を渡って対岸へ。

橋を渡ったら旧道に戻るため「田んぼの中の土手道」(右)を歩くのだが これが長い。しかも吹き付ける風の冷たいこと。
やっと国道407号にたどり着き 車の切れ目を狙って向う側へ。危ない!危ない!

次に目指す宿場は松山宿。まだしばらく先のようだ。

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