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千人同心街道  道中記

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***第15宿天明宿***
慶長7年(1602)に佐野藩初代藩主となった佐野信吉によって整えられた町並みは例幣使街道の開通により宿場町として発展。
さらに千人同心街道(日光脇往還)が合流したことで日光詣での旅人も多く往来するようになり賑わった宿場であった。
例幣使街道に合流した千人同心街道は楡木宿で日光西街道に合流し今市宿で日光街道に合流して日光東照宮に至っている。
街道地図

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平成27年4月17日

館林宿の佐野口門跡を出て三叉路を右に進むとその先は遥か彼方まで真っ直ぐ。佐野と館林を結ぶ重要な街道で多くの旅人や物資が行き交ったことだろう。

かれこれ30分ほど歩き下早川田の集落に入るとその先は矢場川と渡良瀬川。
目の前の堤防に上ると広大な河川敷が広がっているが かつては「早川田(さがわだ)の渡し」があり賑わっていた場所。
今は「渡良瀬大橋」(右)で対岸の栃木県・佐野へ。

堤防の下に多数の「石塔群」(左)が見える。
近くで見ると大きい石碑を含めて全て馬頭観音であった。渡し場があった頃の物資運搬に活躍したのは馬車や荷車。この渡し場でも多くの馬が活躍したのだろう。

渡良瀬大橋の下を流れる 「渡良瀬川」(右)は今は穏やかな流れだが かつて足尾鉱毒事件の舞台となった川。旧川俣宿で見た川俣事件もこの川に流れ込んだ鉱毒に苦しんだ農民の声であった。

橋を渡ったらちょっと寄り道を。堤防際の雲龍時に足尾鉱毒問題に生涯を捧げた「田中正造の墓」(左)がある。
73歳で没した田中正造の仮葬儀が雲龍時で行われ本葬が佐野の惣宗寺で行われたが、その後、遺骨がゆかりの地に分骨され墓が造られたのであった。

雲龍時から5~6分の場所に「田中正造終焉の家」(右)がある。現地調査をしている途中で病に倒れ看病を受けた庭田家で他界。庭田家では正造が亡くなった部屋を当時のまま保存しているという。

街道は庭田家の前を通って県道を横断していくのだが県道の手前に草に隠れるように「夫婦道祖神」(左)が。このお二人 よく見ると、なんと酒を酌み交わしているのだ。

県道を横断したらちょっと戻って「椿田稲荷神社」(右)へ。伏見稲荷系列の神社ということで参道には真っ赤な鳥居が幾重にも。お礼参りに狐を奉納するようで拝殿には小狐がぎっしり

街道に戻り才川沿いの土手道からちょっと迂回して寄り道を。

向かった先は立派な冠木門がある「椿田城跡」(左)。永禄3年(1568)に唐沢山城の出城として築かれ福地氏が城主に。しかし慶長19年(1614)、佐野氏改易に伴い廃城。
その後、江戸時代を通じて福地氏が名主・郷士となり住み続け 現在も子孫の方が城跡を守っている。

敷地の一角にある堂宇は「椿田十一面観音福地堂」(右)。収められているのは福地家の遠祖・具平親王(ともひらしんのう・964~1009)の時代から受け継がれているという黄金造りの十一面観音。 

街道に戻り県道7号、東武佐野線の踏切を越えてかれこれ40~50分、到着した場所は伝教大師最澄の開基と伝わる古刹東光寺

前門を入るとその向こうに見えるのは「仁王門」(左)。悪者に睨みを効かす両脇の仁王像はかなりの年代物のようだ。
仁王門先の薬師堂には最澄が自ら彫ったという七体の薬師如来像のうち五番目のものが本尊として安置されている。

薬師堂の裏に回り込むと「中門」(右)があるが この門は植野城(堀田佐野城)の大手門を明治9年(1876)に移設したもの。植野城は堀田摂津守正淳が植野の地に封じられた際の陣屋で後に加増され城に格上げ。

街道際にある「普門院」(左)の本尊は栃木県指定有形文化財の「地蔵菩薩半跏像」。天明鋳物の地蔵菩薩は2童児を従えるとは珍しい。拝観できないのが残念。

その先5~6分歩いた宝龍寺の参道に「銅像 阿弥陀如来坐像」(右)が鎮座。 元禄7年(1694)の建立だが残念ながら関東大震災の影響で三道が破損し頭が傾いてしまった。
  三道:首にできた三段の横向きの線

街道から左の路地を入った奥にあったのは「金山神社」(左)。鋳物師の崇敬篤いこの神社は治安2年(1022)に祀られたと伝えられている。祭神はもちろん金山彦命と金山姫命の二神。
拝殿の扉に彫刻が施されているが、本殿のぐるりにも日光彫が施されており 思わず 素晴らしい の一言が。

ほどなく日光例幣使街道に合流し天明宿に入るが その前に佐野厄除け大師(惣宗寺)に寄り道を。まず潜る「山門」(右)は佐野新吉が築城した佐野城の城門を移築したもので江戸時代前期の作。

山門を入ると鐘楼に燦然と輝いているのは「金銅(きんづくり)大梵鐘」(左)。
元三慈恵大師一千年御遠忌を記念して建立されたのだそうだが金色の梵鐘とは凄いね~

境内には金色がもう一カ所。本堂左手の「麗水観音」(右)も燦然と輝いているのだが この観音様はある日突然行方不明に。ところが、雨の降る寒い朝、駐車場の片隅にお一人でたたずんでいたのだとか。

惣宗寺は足尾鉱毒事件を告発した田中正造の本葬が行われた寺。境内の一角に「田中翁の墓」(左)が建てられている。

翁の墓の前に据えられているのは「石川啄木歌碑」(右)。
  夕川に 葦は枯れたり 血にまとう民の叫びの など悲しきや   石川啄木
盛岡中学3年だった啄木は鉱毒事件を天皇に直訴した正造翁に感動、三十一文字に託したのだった。

関東三大師の一つに数えられる「佐野厄除け大師」(左)は元三慈恵大師が祀られていることから厄除け祈願の参拝客でいつも大変な賑わい。
また、徳川家康の遺骨を日光東照宮に遷座の途中、一泊した寺でもあることから徳川幕府とも縁が深い。

この仏縁により諸大名の寄進で文政11年(1828)に造営されたのが「東照宮社殿」(右)。日光東照宮を模した本殿・拝殿や唐門・透塀は栃木県指定重要文化財。

例幣使街道に合流した千人同心街道は楡木宿で日光西街道(壬生道)に合流し、さらに今市宿で日光街道に合流して日光東照宮に向かう。

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