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J富田宿とんだじゅく                               街道地図
例幣使街道開通以前から宿場機能を備えていた富田宿だが、幕府から正式に伝馬宿として指定されたのは
少し遅れた正保3年(1646)。その後、新町・上町・中町・荒町・下町 の5町まで発展したが今は往時の
面影を僅かに残す静かな町並みとなってしまった。
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 平成24年10月25日
犬伏宿を出た後 あちらこちら見学しながらかれこれ2時間、県道11号を横断した先を左に入る道が例幣使街道。

左に入って7〜8分、ちょっと寂しげな神社は「和泉天満宮」(左)。 由緒などは分からないが寛政12年(1800)の銘が刻まれた庚申塔があるので それ以前に創立された神社だろう。

この後は県道11号に付かず離れずで30分ほど歩くと ここにもちょっと寂しげな「神社」(右)があるがこの辺りが富田宿の南入口。 地元の人に聞くと河田家が個人的に所有する神社だが詳しいことは分からないという。

富田宿も例幣使街道特有の長ーい直線道路。宿入口から7〜8分歩いたらちょっと寄り道を。
向った先は大同年間(806〜809)の開山という古刹 「玉正寺」(左)。本尊の地蔵菩薩は仏師定朝の作だとか。

街道に戻って数分、道路際に「軍馬観音」(右)が。ついぞ聞いた事がない観音だが。碑の裏に「シベリヤ出征騎兵・・大正8年・・・」とある。きっと愛馬だったのだろう。

往時の面影少ない富田宿だが 富田交差点を左に曲がったすぐのところに「富田宿本陣跡碑」(左)が建てられている。本陣を務めていたのは和久井家であった。

富田交差点から数分、「八坂神社」(右)は富田中根城(富田城)の守護神として勧請された牛頭天王社を 現在地に移転。 明治元年(1868)に八坂神社に改称。神楽殿もある良い雰囲気の神社だ。

その富田城跡が街道から近いので寄り道を。
神社から数分の三叉路を左に曲がった先の大平西小学校前に「富田城跡碑」(左)と説明板が建てられている。

富田城は嘉吉元年(1441)に富田氏の居城として築かれたが弘治3年(1557)に皆川氏に攻められ落城。その後、城主が幾度となく代わったが ついに廃城。 その城跡も残念ながら大部分が破壊されてしまった。

街道に戻ると見えたのは「旧大平下病院」(右)。下見板張りという洋館は建築年代不明だが なんとも懐かしい。


さらに数分歩いた先の古民家は「旅籠島田屋安兵衛跡」(左)。いつ頃建てられたかは分からないが、1・2階ともに格子戸がはめ込まれ往時の旅籠の様子がよく残っている。

富田宿はこの先の宗光寺辺りが宿の北入口となるが そこに見えたのは朱鮮やかな「地蔵堂」(右)。地蔵堂のそばに天明3年(1783)の馬頭観音や享保12年(1727)の十九夜塔なども。

宗光寺の先4〜5分の交差点まで来たらちょっと寄り道を。
右へ曲って200mほど歩いた所の「星の宮神社」(左)には狛犬ならぬ庚申塔が鳥居の前に鎮座。神門を潜った先の本殿は覆屋に守られているが屋根が最近では珍しい桧皮葺き。

街道に戻り数分、例幣使街道は県道11号バイパスには合流せずその脇の「旧道」(右)に入っていく。

旧道に入ってすぐの所に大平山と刻まれた「常夜灯」(左)がある。はずだが台座のみで上部が無い。東日本大震災で倒壊したのだろうか。写真では分かり難いが左右の狛犬が溶けかかって猫になったような。

街道はこの先で所々消滅しており分かりにくいが、駐車場脇を通り、住宅街を抜け、県道バイパスを横断し、永野川に架かる「永久橋」(右)を渡って堤防上の道を通っていくと旧道に復帰。

永久橋を渡って15分ほど歩くと天正年間(1578〜92)の創立という「川連天満宮」(左)に到着。県道のバイパス工事に伴い現在地に移転したというが昔からこの地にあったような。

天満宮の北側一帯はかつて川連城があった場所。しかし平城の悲しさ、宅地開発やバイパス工事で大半が消滅。往時を教えてくれるのは天満宮南側の「川連城跡碑」(右)と説明板のみ。「応仁年間(1467頃)、川連仲利が築城したが永禄6年(1563)に皆川俊宗に占領された」とある。その皆川氏も豊臣の軍勢に破れ川連城も廃城。

天満宮前の県道を横断すると栃木市。もう少し歩くと小江戸と呼ばれる栃木宿。

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