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@玉村宿たまむらじゅく                         街道地図
江戸時代初期、幕府の代官伊那備前守忠次によって新田が開発され集落が形成された玉村は
例幣使街道の開通によって街道一の宿場町へと発展。4月11日に中山道・倉賀野を通過した
例幣使一行は夕方玉村宿に到着し一泊。翌日の早朝には次ぎの宿泊地である天明宿目指して
出発。今の玉村宿は幾度かの大火で全焼したため往時の面影はあまり残っていない。

 平成24年6月26日

井野川の土橋跡から国道354号に合流した例幣使街道は「彼方まで真っ直ぐ」(左)。地図上で計測するとなんと3.5km、長い!このうち玉村宿は2.6kmほどの区間で、本陣1軒、旅籠屋50軒、問屋場が2軒置かれていたというから かなり大きな宿場であった。

しばらく歩いた左側、古色蒼然とした「萬福寺の石仏」(右)がなんとも味わい深い。隣には最近建て直された稲荷神社がある。

萬福寺から7〜8分、ちょっと奥まった所の古民家は「旧問屋場」(左)の和泉屋(井田家)。問屋役を務める傍ら 造り酒屋を営んでいた井田家の主屋は慶応4年(1868)の大火を免れた江戸時代の貴重な建物。

和泉屋の隣に朱に塗られた鳥居がそびえているが ここは鎌倉時代の建久6年(1195)、源頼朝公が鎌倉・鶴岡八幡宮より勧請建立したと伝わる「玉村八幡宮」(右)。
今は弊拝殿に取り込まれ見えないが永正4年(1507)建立という本殿は国の重要文化財。

境内左手の 玉遊 と刻まれた「力石」(左)は重さ45貫(180kg)。なんと、弘化4年(1847)に武蔵国神奈川の徳次郎と岩槻の長次郎という人物が当地の世話人の前で45貫の石を担ぎ上げたそうだ。

左手林の中に見える石塔は 文化2年(1805)建立の「芭蕉句碑」(右)。
  やすやすと出でていざよう 月の雲   翁

玉村八幡宮と反対側の道を入った称念寺にあった石塔は「家鴨(あひる)塚」(左)。
嘉永3年(1850)、国定忠次郎(忠次)が捕縛され江戸送りの途中、玉村宿に留置されたが忠次郎の中風に同情した人物が治療のため家鴨の生血を飲ませたと云われている。その家鴨の供養碑。

街道に戻り数分歩くとレンガ造りの建物が目に入ったが ここは造り酒屋の「町田酒造」(右)。創業から160年、昔ながらの手法で続ける酒造りの代表銘柄は 太平人。

町田酒造対面の道路を入った奥に「木島本陣歌碑」(左)が据えられている。本陣建物は慶応4年(1868)の大火で焼失してしまったが帰路も中山道を利用した例幣使参議有長の歌碑は無事であった。
 天保14年卯月例の みてくらの使にかさねて むかひける帰るさに
        玉むらのやどりにひらくたまくしげ ふたたびきそのかへさやすらに    参議有長


街道に戻りしばらく歩くと「上州櫓造りの民家」(右)発見。最近は滅多に見られなくなってしまった。

しばらく歩くと直線だった街道が緩く右へ曲り始めるが この辺りが宿場の下木戸があった場所。その左側石塔群の中で目立つのは「毘沙門堂の石灯篭」(左)。 この石灯篭は江戸時代に下新田村と飯島村の境にあった毘沙門堂の常夜灯だったと云われているが文化財としてこの地に保存。

この先で街道を外れ10分ほど歩くと見られるのが「文安銘の五輪塔」(右)と呼ばれる墓石。室町時代の文安5年(1448)と文安6年に建立された夫婦の墓だが、仲良く寄り添っているのが微笑ましい。


街道に戻り工業団地の中の国道354号をてくてくと30分、小さな公園に石碑が何本か建っているが その1本は明治天皇が旧陸軍の演習を天覧した記念の「聖跡記念碑」(左)。

国道と重なっていた例幣使街道はこの先で左側の「旧道」(右)に入るが ここまで来ると次ぎの五料宿が近い。

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