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F八木宿やぎじゅく  宿場の入口と出口の両側に2本ずつ、合計8本の松の木があったことから八木宿という地名になったという。
戸数九十六、旅籠十九軒というから大きな宿場ではなかった。 木崎宿と同様に飯盛り女がいたが その遊女
たちが故郷を偲んで口ずさんだ唄が民謡の八木節へと発展。
街道地図

 平成24年9月21日

太田宿を出た後、古墳に寄り道したり鳥居の無い神社を見たり、桜山跡という謎の石碑に遭遇したり。かれこれ1時間半、街道旅は群馬県から栃木県へ。

ほどなく「八坂神社」(左)に到着。ひっそりとした神社だが たたずまいがなんとなく昔懐かしい 。参道入口の 村社八坂神社と刻まれた石柱の台座は「道標」(右)になっており「西 太田伊勢崎道  東 佐野福居道」の文字が。

八坂神社から数分で県道の新宿(あらじゅく)交差点に差し掛かるが、ここは新宿の辻と呼ばれ館林道との追分であった。例幣使街道はここを左に曲がっていく。

新宿の辻から数分、勢至観音堂横の「地蔵菩薩」(左)の台座も道標になっており、刻まれている道筋は「右ハたてばやし道 左ハさの道」。

観音堂先の新宿橋を渡った所に建てられていたのは「国境表示」(右)。ちょっと読みずらいが「西 上野国 倉賀野十一里十八丁 下野国 日光まで二十里六丁」。 ここからは下野(しもつけ)国の旅だ。

国境表示から10分、宝性寺参道に建てられた墓石は「堀込源太翁の墓」(左)。八木宿の飯盛女が口ずさんでいた唄が盆踊りとなり、これを全国に広めたのが初代堀込源太(本名:渡辺源太郎)

八木宿交差点まで来たら左に曲っって寄り道を。曲がった先の路地奥に鎮座するのは「二柱(ふたはしら)神社」(左)。今日はひっそりと静まり返っているが11月の最終土曜日に行われる恵比寿講は大変な賑わいだとか。なんと、神社マニアもその混雑ぶりを見て逃げ出してしまうほどだという。

街道に戻ると八木宿交差点際の荒物雑貨店テラヤマが「八木宿本陣跡」(右)。残念ながら石碑・説明板の類は無いが本陣を務めていたのは千代本の屋号を名乗った寺山家であった。

八木宿は戸数九十六、旅籠19、入口・出口間500〜600メートルという小さな宿場。その中頃に「八木宿碑」(右)と説明板が建てられている。

八木宿碑の後ろに八木節会館があるのでちょっと覗いてみることに。
 ζ ハァ〜 ちょいと出ました三角野郎が 四角四面の櫓の上で 音頭とるのは恐れながら ・・・・・
「八木節風景」(左)の模型がありました。

八木宿碑のちょっと先左側、昔の面影残す建物の「島岡印刷所」(右)は女郎屋跡だと云われているが定かではない。

数分先の「母衣輪(ほろわ)神社」(左)はかなり歴史ある神社。由緒によると「倭建命(ヤマトタケルノミコト)が東国征討のおり、この地に母衣(武具)を奉納し武運を祈願した神跡」なのだそうだ。境内に足利市重要文化財(天然記念物)の大木が2本。樹齢200年以上という銀杏と樹齢200年というクスノキ。

母衣輪神社からさらに数分、街道に面して「古民家」(右)が1軒。地元の人の話では穀物・雑貨を扱っていた大黒屋さんで大分前から店はたたんでいる、とのことであった。


その先の丁字路を左に曲がり福居駅まで歩くと現役の「赤レンガ工場」(左)が見られる。しかも鋸屋根とは珍しい。登録有形文化財の建物は大正8年(1919)に捺染工場として建てられたのだが今も潟gチセンが工場として使用。こちらのレンガ建物もトチセンの工場。

かつての宿場は福居駅入口辺りで終わり。街道は東武線の踏切りを渡って次ぎの梁田宿へ。

街道からちょっと外れるが赤城神社に寄り道を。嘉永4年(1851)に再建された「本殿の彫刻」(右)が素晴らしい。なんと、彫刻は脇障子にまで及んでおり足利市重要文化財。

街道に戻り数分、道路際に「地蔵供養塔」(左)が。このお地蔵さん、台座に乗っているせいもあるがスラリとしておりなかなかの容姿端麗。頭脳も明晰なんだろうなー。

この先から田んぼ沿いの長閑な道。数分歩いた先の三叉路にあったのは「庚申塔と道標」(右)。道標は大正13年(1924)に建てられたものだが2本に折れているのが残念。刻まれている文字は「西 福居ヲヘテ太田方面ニ至ル」。

この先は県道128号をてくてくと梁田宿へ。

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