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K栃木宿とちぎじゅく                                 街道地図
小江戸と呼ばれ蔵の街として知られる栃木宿は近くを流れる巴波川(うずまがわ)の舟運によって栄え、
北関東の商都とも呼ばれていた。江戸からは日光御用の荷が、栃木からは農産物や木材が江戸に運ばれ、
江戸末期には隆盛を極めた豪商達が巴波川の両岸にきそって土蔵を建てていったという。
今もその一部が見られる。栃木宿を訪れた日は『とちぎ秋祭り』の真っ最中。良い日に来たものだと
喜んだが、あまりの人の多さに写真が思うように撮れない。もう一度訪れる破目に。

 平成24年11月10日 ・ 11月28日     コメント:写真は11月10日と28日の両日に撮影したものを混在して使用しています。
富田宿を出て川連神社前から県道バイパスを横断した例幣使街道は真っ直ぐの道を10分ほど歩き東武日光線手前を左に曲がって道なりに20分、突き当たりを左に曲がって
県道31号を横断すると栃木宿が近い。

すぐに例幣使街道と記された木製の「道標」(左)が現れる。その先を右に曲ると「八百万商店」(右)の看板が見えるが街道はその前を通っていく。

八百万商店の先は十字路や交差点が何回かあり、木製の道標も設置されているが あくまでも道なりに進むと県道に合流。
 

県道に合流したら数十メートル先を左に曲がると その先は分かりやすい。
巴波川に架かる開明橋の手前に鎮座しているのは「熊野神社」(左)。境内に何基かの石仏が建てられているのは神仏習合時代のなごりか。

開明橋の向こうに1軒の古民家が見えるが この辺りが「栃木宿南木戸跡」(右)。その先から栃木宿ということになるが、橋を渡って左に曲がると どこからともなく祭囃子が。

お囃子の音に誘われて栃木宿に入ると早速「秋祭りの山車」(左)が出迎えてくれたではないか。ピーヒャラという笛の音と絢爛豪華な山車。ワクワクするね〜。

その先にも何台もの山車が繰り出しており山車を見るだけでも来た甲斐があったというもだ。
が、目的は街道沿いの遺構・遺跡を巡る旅。 あまりに人が多いので目的の写真が上手く撮れるか心配。

栃木宿は国登録有形文化財の宝庫。ここも、あそこもと言うくらい文化財が多い。せっかくだからなるべく多く訪ね歩いてみようではないか。

さっそく向った場所は「定願寺」(左)。天正年間(1573〜91)に川連城の城主・皆川氏によって当地に移された寺だが江戸末期の元治元年(1864)、攘夷を掲げた天狗党の本陣となっている。

当寺にはいくつかの市指定文化財があるが、その中の一つ、「不動堂の彫刻扉」(右)が素晴らしい。
北面の武士遠藤盛造が僧文覚となり紀州熊野の那智の滝で荒行する場面を彫った透かし彫りで 『見事』 の一語に尽きる。

街道に戻ると、そこに「古民家が5棟」(左)
際物問屋の三枡屋は嘉永元年(1848)の創業。毛塚紙店は享保年間(1716〜35)の創業で、建物は明治41年(1908)の建築。 丸三家具店の建物は明治後期の建築で、いずれも国登録の有形文化財。

次ぎの倭町交差点を左に曲がって数分、黒漆喰の見世蔵は「旧雅秀店舗」(右)。明治後期の建築であるが国登録有形文化財で今は野菜などの直売所。

その先の幸来橋(くるみばし)の上に立つと清らかな流れの「巴波川と塚田歴史伝説館」(左)を眺めることができる。
塚田家は江戸時代後期に木材回漕問屋を営んでいた豪商。利根川を経由して江戸深川まで一昼夜で木材を運んでいたという。120mに及ぶ黒板塀と土蔵群は今は博物館だが もちろん国登録有形文化財。

ちょっと覗いてみることに。「テトンテトシャン・・・ところでお客さん・・・」 と迎えてくれたのは幾つもある蔵の最初の蔵の中。なんと三味線を弾いてくれた「語り部おばあさん」(右)はロボットでした。 傍らの猫もロボット。

塚田歴史館を出たら街道に戻る前にちょっと寄り道を。向った先は「長谷川本陣跡」(左)。街道からかなり離れた場所の本陣は珍しい。例幣使一行はここで昼食をとるのが習わしだった。

街道に戻ったら交差点を横断して真っ直ぐ進み次なる寄り道へ。
途中に大正ロマンを感じる建物が。下見板張り、白亜の階建ては大正時代に建てられ今も現役の「大場医院」(右)。

向った先は「満福寺」(左)。弘長2年(1262)に創建されたと伝わっているが天正15年(1587)ごろ当地へ移転。
寺宝の三鬼尊(鬼神像)は左甚五郎作とも定朝作とも云われているが、その中の青鬼は、昔、酒屋を荒らしたという罪で鎖に繋がれているのだとか。

当寺には栃木出身の孤高の日本画家「田中一村の墓」(右)があり本堂の前には供養碑も建てられている。

倭町交差点まで戻るとビルとビルに挟まれた黒漆喰塗りの土蔵造り店舗が見えるが ここは「中田家住宅店舗」(左)。江戸末期に建てられた建物で国登録有形文化財。

その斜め前辺りに「荒物店が2軒」(右)。ともに歴史を経た建物だが左側の五十畑(いかはた)荒物店の建物は明治中期に建てられたもので こちらも国登録有形文化財。

五十畑荒物店隣の洋風建築は「関根家住宅店舗」(左)。 タイル貼り2階建ての建物は大正11年(1922)の建築だが蔵造り店舗が多い中で異彩を放っている。この建物も国登録有形文化財。

2〜3分先の見世蔵は「蔵の街観光館」(右)。八百金の名で知られた荒物問屋田村商店の店舗で明治37年(1904)の建築。奥の蔵は食事処と土産品販売所で蔵の街の観光拠点。
 

蔵の街観光館並びの見世蔵は安政3年(1856)建築の和多忠履物店、さらにその左隣の洋館は大正12年(1923)建築の旧安達呉服店(現安達考古壱番館)、その隣の見世蔵は明治初期建築の大仁商店で、いづれも国登録有形文化財。


観光館脇の道を入った突き当たりは栃木のお伊勢様と呼ばれている「神明宮」(左)。 創建は応仁10年(1403)と云われているが天正17年(1589)に皆川氏によって現在地に移され栃木の総鎮守となった。

訪れたときは「神楽殿」(右)で奉納神楽の真っ最中。久しぶりに時間を忘れて里神楽を堪能してきました。

街道に戻ると道路反対側奥に「山車会館」(左)のノッポな建物が見える。秋祭りは2年に1度の開催だが ここには常時3台の山車が展示されており絢爛豪華な山車がいつでも見学できる。が、有料ですよー。

山車会館隣の「蔵の街美術館」(右)は文化年間(1804〜17)から天保年間(1830〜43)にかけて建築された豪商善野家のおたすけ蔵(困窮人救済のため多くの銭や米を放出した蔵)を美術館に改修したもの。

再び街道に戻るとその先の古民家は「山本有三ふるさと記念館」(左)。街道に面した南棟と裏の北棟の二棟あるが、ともに明治初期の建築で国登録有形文化財。

その「山本有三の墓」(右)が記念館脇の道を奥に入った近龍寺にあるが墓は墓石ではなく文学碑。
ちなみに1月11日は山本有三の命日。毎年、墓の前で一・一・一忌墓前祭が行われるのだとか。

街道にもどったらもう数ヶ所寄り道を。向った先は栃木県庁跡周辺

その途中、「巴波川の綱手道」(左)がよく分かる場所がある。江戸からの帰り舟は流れの速い巴波川(うずまがわ)を上る際、麻綱で舟を引いたのだが その曳く道が両岸の綱手道。

川沿いには豪商の蔵が沢山並んでいたが右岸に見えるのは「横山郷土館」(右)。麻問屋と銀行を営んでいた豪商横山家の建物は明治後半の建築だが左右の蔵を含めて国登録有形文化財。

巴波川先の洋館は元栃木県庁があった場所に建てられた「栃木市役所別館」(左)。旧栃木町役場として大正10年(1921)に建てられたもので国登録有形文化財。

当別館および市役所を囲むように設けられている堀を「県庁堀」(右)と呼んでいる。廃藩置県の後、明治6年(1873)に宇都宮県を合併しこの地に栃木県庁を置いた際設けられた堀で全長は1kmほど。
栃木県庁は明治17年(1884)に宇都宮市に移転。市役所も移転しました。

市役所別館から数分の栃木高校にも国登録有形文化財が3棟あるので足を延ばしてみることに。

その一つが「記念図書館」(左)。 同窓会の記念事業として大正3年(1914)に建てられた洋館で、その後、養生寮と名付られ生徒の修養の場としても使われている。

街道に戻り数分歩くと看板に「下野新聞社」(左)と記された古民家が1棟。もと肥料豪商の毛塚惣八が文久元年(1861)に建設した見世蔵で なんと直径40センチの松の梁が使われているのだとか。

新聞社先の交差点際、ちょっと地味な陸屋根の建物は昭和9年(1934)に建てられた旧足利銀行栃木支店。ここも登録有形文化財。

宿場の賑やかさも少なくなった交差点際の「万町交番」(左)は なんと蔵造り。さすが蔵の街というだけあってこだわりますねー。交番の反対側にある 桜井肥料店 も国登録有形文化財。

桜井肥料店の横を通って数分の奥に瀟洒な洋館が見えるが、ここは大正2年(1913)に建てられた「栃木病院」(右)。NHKの連続テレビ小説にも使われたことがあるが ここも国登録有形文化財。
栃木宿には登録有形文化財がいったい幾つあるんだ?

例幣使街道は万町交番前交差点を渡ったら真っ直ぐ行かず左に曲がってすぐのV字路の左側を入っていく。
入口に「日光例幣使街道」(左)と刻まれた道標や表示が出ているので間違える事はないだろう。

V字路に入ってすぐのところに昔懐かしい店舗が見えるが ここは「舘野家の住宅店舗」(右)。昭和7(1932)年の建築だがここも国登録の有形文化財。

この先は鄙びた街道風景に替わっていく。4〜5分歩いた先の三叉路を右に行く道が例幣使街道であるが左に曲がってちょっと寄り道を。

向った先は「岡田家住宅翁島別邸」(左)。豪農商岡田家22代当主が大正13年(1924)に建てた別荘で、木曽桧や秋田杉、屋久杉の銘木が各所に使われ廊下は欅の一枚板が使われるという贅の極み。

当主が齢七十を迎えるに当たって巴波川河畔に構えた隠居所で庭を含めた七反歩(約7000u)が島状であったことから翁島と呼ばれたという。この建物も国登録有形文化財。
その庭の一角に「竹のトンネル」(右)が設けられている。このトンネルがなんとも言えない風情があるんだ。
 

街道の三叉路まで戻るとその先に見えるのは「岡田記念館」(左)。岡田家がこの地に移住したのは約550年前。荒地開墾からスタートし地域発展の基礎を築いたという。

例幣使街道が開通すると名主役を務め 畠山氏の知行時代は四千uにも及ぶ広大な敷地の一角に陣屋を設け代官職も代行。 陣屋門前の石塔は「陣屋跡碑」(右)。
現在の当主は26代目。代々嘉右衛門を襲名し嘉右衛門町という地名の由来にもなっている。

岡田記念館から4〜5分、三叉路に「庚申塔道標」(左)が。刻まれている道筋は「右 おざく道 日光道 左 三日月道」。

その先数分の商店は例幣使街道を歩く方々だったら必ず立ち寄る「油伝(あぶでん)味噌」(右)。天明年間(1781〜89)創業の当初は油屋であったが江戸時代末ごろから味噌の醸造をはじめたのだとか。建物のほとんどが国登録有形文化財。

油伝では味噌田楽を食べさせてくれる。おばあちゃんと若女将が焼いてくれる田楽は ことのほか旨い。これを食べずして 「例幣使街道を歩いた」 などと言う無かれ。 

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