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B柴宿しばじゅく                                       街道地図
利根川を渡ったすぐの宿場で規模は比較的小さかったが 中町・堀口などの加宿を加わえるとそれなりの規模の宿場。
現在の町並みに往時の面影はあまり残っていないが本陣跡周辺に往時の水路が復元されている。
玉村宿で一泊した例幣使一行は柴宿の本陣で休憩することが慣わしとなっていた。

 平成24年8月7日
五料の関所を通った例幣使街道は渡し舟で利根川を渡ったのだが今は上流の五料橋を渡って柴宿へ。

五料橋を渡り数分歩いて左に入った奥は「柴町八幡神社」(左)。 この神社は源頼義が前9年の役(1051〜62)の際、戦勝祈願したと伝わる古い歴史を持つ。

八幡神社からさらに奥に向う道が「泉龍寺参道」(冒頭写真)。東海道の松並木を思わせるような素晴らしい並木道だ。
泉龍寺境内に室町時代の応永年間(1394〜1437)頃に造立されたと思われる石仏が2体。「延命地蔵菩薩(右)と薬師如来(左)(右)の2体であるが風雨にさらされゴツゴツした石仏がなんとも魅力的。

街道に戻ると「例幣使街道桜並木」(左)が待っている。 利根川を渡った街道はこの先にある雷電神社へ直線的に延びていたのだが享保14年(1729)に宿場が現在地に移転。

都市計画に基づいて造られた柴宿には桜並木があり立派な水路も完備していた。往時を偲ばせてくれるのは桜並木と復元された「水路」(右)。

桜並木の中ほどに関根家本陣があったのだが残念ながら昭和46年(1971)に解体され、現在は「本陣門と老松」(左)のみが往時を知る遺構となってしまった。

街道はその先で右へ曲り、数分先で左へ曲る枡形道。
その左へ曲る街道の横にある「雷電神社」(右)は6〜7世紀頃に作られた円墳の石室真上に設けられている。近年、社殿が改築されたが正面左右に鏝絵が施されているのが珍しい。

雷電神社から10分ほど先の左奥、「満善寺」(左)は日光山 中禅寺を開山した勝道上人の建立と伝わっており千年以上の歴史を持つ古刹。しかし本堂が新しいせいか古刹という雰囲気はあまり無い。

満善寺から戻って水路横の道に入り10分、観音堂前の石塔群の中の一体は「夜泣き地蔵」(右)。
天明3年(1783)の浅間山噴火による犠牲者が利根川べりの戸谷塚村に流れ着き、村人が手厚く葬りました。しかし、夜な夜なすすり泣き声が聞こえるので地蔵を建立、霊を慰めたところ夜泣きが止んだのだとか。

街道に戻り次ぎの堀口交差点まで来たらまたまた寄り道を。
左に曲がった先の名和小学校校庭に建てられた石碑は「那波城址碑」(左)。この東側200mほどの所に鎌倉時代に活躍した那波氏の居城・那波城があったのだが今は城址碑が建つのみだ。

ここまで来たのでもう少し足を伸ばして「飯玉神社」(右)に参拝を。安閑天皇元年(532)、丹波の国から神霊を迎えて祀ったのが始まりという歴史ある神社。那波氏領地内の99の飯玉・飯福神社の総社。

街道に戻り7〜8分歩いた先の「昌雲寺山門」(左)の前に変わった石仏が。下を向いてお辞儀をしているような。元々は高い位置にあった石仏なのではないかと。

さらに20分ほど歩いた先の街道際にある豊武神社境内に「石仏道標」(右)が一基。例幣使街道沿いにあったものだが、上部に二十二夜信仰の如意輪観音が彫られ 台座に刻まれた行き先は「右ちゝぶ 左日光」。

数分先の公民館庭にある小さな「道標」(左)に刻まれた文字は「西五料道 南本庄道 東日光道」。
さらに7〜8分、交差点際に「道標が2本」(左)。大きい方は猿田彦大神道標で刻まれている文字は「右玉村 左やった」。小さい道標は大正4年(1915)に建てられたもの。

交差点先の立派な石碑は「伊勢崎織物 大絣(かすり)発祥の地碑」(右)。元亀元年(1570)頃には市場で取引され、明治に入ると伊勢崎銘仙と呼ばれ全国に声価を高めたという。
 

数分歩くと水路際に「遺跡三ツ橋碑」(左下)と庚申塔を収めた祠があり三ツ橋伝説が解説されている。

建仁2年(1202)、栄朝禅師が三ツ橋に通りかかると幼い子どもを抱えた夫婦が途方にくれていたという。禅師が子どもを見るとハシカだったので すぐに経文を唱えるとたちまちハシカが直ってしまったのだとか。

その数分先に 牛打ちの松 「芭蕉句碑」(右)が建てられている。ここには栄朝禅師が牛の尻を打っていた木が根付いて大木になったという松があったのだが残念ながら切り倒されてしまった。
 涼しさや すぐに野松の枝の形(なり)   はせを

この辺りは適度な間隔で見どころが現れるので飽きる事がない。
芭蕉句碑から10分ほど歩き馬見塚町交差点を過ぎると「飯玉神社」(左)が。99ある飯玉・飯福神社の一つ。

隣の寺院は文明元年(1469)開基の「延命寺」(右)。 ここは伊勢崎・佐波観音霊場巡りの第一番。境内の観音札所は明和3年(1766)に出来たとされている。また延命寺は例幣使一行の御小休所でもあった。

さらに数分歩くとナマコ壁の建物に歴史を感じる玄関と立派な扁額が。 詳しいことは分からないが ここは豊受公民館前の集会所。その裏は豊受小学校跡で懐かしの二宮尊徳像が健在でした。

ところで今日は立秋。だがなんとこの暑さ。秋どころか真夏日を通り越して猛暑日。昔はこんな暑い日はなかったなー。

ほどなく例幣使街道を歩く人に人気の「忠治茶屋」(右)。えッ!休み 「火曜定休日」だと。焼きまんじゅうが食べたかったのだが。

旧例幣使街道は茶屋から100mほど先を右に入り 畑の間の細い道を行くのだが途中に「右赤城」(左)の説明板が。
ここは「赤城山」(右)が右手に見える場所。 これまで左に見えていた赤城山がこの場所だけ右後方に見えるのだが家が建ってしまったため完全な山容が眺められないのが残念。

ちなみに説明板の方向に見える山並みは榛名山。

街道は説明板の先で左に曲がり突き当たりの丁字路を再び左へと曲り、現国道354号に入るという複雑な経路。地図を見ると広瀬川が大きく蛇行しているがその影響かと。

突き当たり丁字路の円柱は「道標」(左)。刻まれている文字は「右五りょう 東日光道 左ほん志やう」。

ほどなく国道は右へ大きく曲るが旧例幣使街道は真っ直ぐ広瀬川の土手に向っていく。その途中に菅原道真を祀った「菅原神社」(右)があるので休憩がてら寄り道を。

広瀬川の土手を上りきったところにある例幣使街道の案内板に「例幣使御一行」(左)のイラストが描かれている。長旅にこんな旅姿もないだろうが お公家様一行の雰囲気は感じられる。


例幣使一行はここから竹石の渡しで対岸に渡り境宿を目指したのだが 今は「武士(たけし)橋」(右)を渡って対岸へ。橋を渡れば境宿が近い。

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