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E太田宿おおたじゅく                                街道地図
新田荘(にったのしょう)と呼ばれていた太田郷が宿場として整備されたのは寛永20年(1643)
その後、例幣使街道5番目(境宿を加えると6番目)の宿場となるが、飯盛旅籠が禁止されていた
ことから大きく発展することはなかった。 旧太田宿内を通る例幣使街道は各幅工事が行われた
ため昔の面影はあまり残っていない。
 

 平成24年9月4日

9月に入っても気候は真夏。しかし草花は確実に秋。道端の「赤まんま」(左)がきれいなピンク色。

木崎宿を出てかれこれ1時間、見所が無いままの1時間は辛い。
やっと見えたのが造り酒屋の「島岡酒造」(右)。店頭はちょっと地味だが裏へ回ると風情ある酒蔵が並んでおり赤レンガの煙突がなんとも言えない味がある。

島岡酒造から数分先、威光寺参道の門柱に 新田義興卿菩提寺 と刻まれているではないか。東京・多摩川河口の矢口の渡し近くに新田義興を祀る新田神社が鎮座しているが、
その義興の菩提寺が何故ここに。 これは通り過ぎるわけにはいかない。

威光寺は新田義興によって元徳2年(1930)に開基、吽海法印によって開山されたという由緒ある寺。
本堂の裏手に質素な法篋印塔が3基。ご住職の話では真ん中が「新田義興の墓」(左)で右側は母堂、左側は侍従の墓なのだそうだ。残念ながら遺骨は納められていない。

街道に戻り坦々とした道を30分 県道2号と合流しさらに10分。永森橋を渡った所に「旧日光例幣使道」(右)と刻まれた説明碑が建てられているが、この辺りに西木戸があり ここから太田宿。

 ここから平成24年9月21日

例幣使道説明碑の対面に見える山門は長念寺。本堂脇に「上州太田七福神」(左)の石造が並んでいるが、本堂に祀られているのは恵比寿様。説明書きによると「恵比寿様は七福神の中でただ一人の日本人の神様」なのだそうだ。その他はヒンドゥー教(インド)の神様であったり中国の神様なんだと。これは知らなかった。

長念寺先の東光寺にも「新田義興の墓」(右)がある。武州矢口の渡しで自刃した義興の遺体は「新田に持ち来る」とされているが、そこが東光寺であった。墓地の一番奥、岡家墓所に建てられていたのは無縫塔。

ちょっと遠いが「高山神社」(左下)まで足を伸ばすことに。

京都・三条大橋手前で 京都御所に遥拝する高山彦九郎像が見られるが、その彦九郎を祀った神社が高山神社。
寛政三奇人の一人と言われた高山彦九郎の誕生地である太田市細谷に彦九郎を祀った小祠が設けられたのが明治6年(1783)。 昭和7年(1932)に小高い丘の現在地に遷座。

街道に戻り4〜5分、テクノプラザ太田の前に据えられた石碑は「太田宿本陣跡地碑」(右)。 館林藩主・榊原康政から建物・諸道具を下賜された橋本家が代々務めていた。

さらに数分先の「ホテル古久三」(左)は文化10年(1813)創業という江戸時代から続く老舗。若かりし頃の森鴎外も宿泊しているのだとか。

かつての面影が少ない太田宿だが今は富士重工業の企業城下町。なんと「太田市スバル町 1」という地名がありました。

ほどなく「追分地蔵堂」(右)が見えてくるが ここは館林方面への古河道との追分。享和3年(1803)に建立されたという道標は「右 たてはやし こか道 左日光道 やきさの駅」。

例幣使街道は追分から左へ曲っていくのだが今は工場の敷地となり道が無い。やむなく真っ直ぐ進むが ついでに寄り道を。

10分ほど歩いた先の小高い丘は「天神山古墳」(左)。写真では分かり難いが航空写真を見ると見事な前方後円墳。長さが210mもあり東日本では最大の古墳。

その先の左手に「女体山古墳」(右)が見えるが、こちらは長さ106mの帆立貝形古墳。女体山とは艶かしいが天神山古墳を別名「男体山」と呼んでいたことから こちらを「女体山」と呼んだのだとか。

少し戻って新島町交差点を右に曲り(太田宿方向から来た場合は左に曲がる)旧例幣使街道に復帰。
この先は田んぼの中の真っ直ぐな道。途中に「地の神様?」(左)が。しかし周りには家が無い。地の神様にしては立派。

田んぼの中の一本道を10分ほど歩き集落に入ると「馬洗い場跡碑」(右)がありました。かつては雨が降ればどろんこ道。やっとここまで来て手前に流れる小川で馬を洗ったのだろう。馬も気持ちが良さそう。

その先数分の「地蔵堂」(左)に祀られている「お地蔵様」(左)はちょっとお年を召したような。近所のお爺ちゃんがモデルかも。

中山道浦和宿に調神社という鳥居が無い神社があったが「石原加茂神社」(右)にも鳥居が無い。
神社の由緒によると「例幣使一行が境内で休んでいると犬が激しく吼えるので切り捨ててしまった。ところが胴から離れた首が鳥居まで飛んでいき大蛇に噛み付いたため例幣使一行命拾い。以降、鳥居をはずしてしまった」のだそうだ。

ほどなく変則四叉路に到着。ここに「台之郷の辻道標」(左)が2本建てられている。小さな道標は江戸時代のもので四面に刻まれた道筋は「東 福居佐野道  北 丸山桐生道  西 太田道  南 龍舞小泉道」。

旧道はこの辻を横切っていたが この先は消滅状態。ここは道標に沿って右に曲りすぐに左へ入ると「旧例幣使街道」(右)。 この狭い旧道の雰囲気がいいんだな〜。しかしこの雰囲気も5〜6分で終わり。県道128号に突き当ったら左へ曲り しばらくはトラックが行き交う県道をてくてくと。

はるか彼方まで続く一本道。そこに3本だけ電線を載せた電柱がはてしなく続く。「子どもの頃見た風景」(左)を思い出し思わず1枚。今もこんな風景があったんですねー。

矢場交差点まで来たら左に曲がり再び鄙びた旧道を。
『日光例幣使街道この先「桜山」跡 』(右)と刻まれた石碑が。桜山? 何だろう。太田市教育委員会にお尋ねしたところ「昔、桜が植えられた山があり例幣使道を歩いた当時の人々の休憩所だったが、今は消滅している」とのこと。

桜山跡碑先の十字路向こうに「旧日光例幣使道」(上右)と刻まれた道標が建てられている。この道標先の工場裏手を通り過ぎると群馬県と栃木県の県境だが この旧道には県境表示は見当たらない。

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